先週の土曜日、私がお手伝いをしているお寺は、正御影供(しょうみえく)大祭という大きな行事がありました。
御影供とは、祖師の命日にその供養をする仏教の法会を指します。
真言宗であれば弘法大師さまがご入定(お亡くなり)になった承和2年(西暦835年)3月21日ですが、新暦に直すと4月22日になり、それを鎌倉まつりの期間にあわせて、4月の第三土曜日と決めているのだそうです。
ということで、これまで事務方として日数をかけて準備してきたわけですが、当日はお稚児さん行列も出て、とても華やかでした。
もちろん私は黒子でしたが、はじめて間近で見る真言宗の法会でしたから、興味津々でした。![イメージ 1]()
私は密教(=esoteric)って、英語の意味でもそうですが、秘儀とか奥義、つまり隠された秘密の「密」だと思っていたのですが、こと真言宗に関しては、「濃密」とか「緻密」、つまり「関係が深いこと」「密度が濃いこと」の意味も入っているんじゃないかと感じています。
それほどまでに、お大師様とのつながりを大切にしているのです。
ほら、八十八か所めぐりでも「同行二人」というではありませんか。
この日ご本尊の大師像が3カ月ぶりにご開帳され、外でお参りする方と直接結ばれるようにと本堂の外まで白布がわたされたのでした。
また、密教は呪術のイメージもあり、弘法大師の超能力者としての伝承と相まって妖しい雰囲気と結びつきやすいと感じてきたのですが、最近読んだ本に密教は宗教であるかぎり自己否定を本質としていて、呪術とは厳格に区別すべきと断ったうえで、次のようなことが書いてあって、自分のこれまでの考えは誤解だと思うようになりました。
「彼(空海)にそのような力(超能力)があったとしても、彼はその力を空思想によって裏打ちされた自己否定を通して行ったと思われる。
空海にとっての「加持」は、自分を空にして他者へと「聖なる」力を与えることであって、自分が所有していると慢心して考えた力を自分の目的のために使うことではない。」
(「最澄と空海」立川武蔵著 角川ソフィア文庫)
そして大祭が終わり、お手伝いの皆さんで食事をいただいて家に帰ったのは夜の9時くらいでした。
仕事の大きな行事も終わったことだし、明日の日曜は久々に教会へ行けると思い、翌日の朝7時に家を出て8時のミサに間に合うように着いたら、やっていません・・・。
あれ?もしや?ああっ、思いだした。
今日は復活祭当日でした!
復活祭、カトリックでは復活の主日といわれるイースターは、前日の(日没後から一日がはじまるので)夕方に行われるミサが大事なのです。
私の通う教会では復活徹夜祭といって、光の祭儀・言葉の典礼・洗礼の儀・交わりの儀という四つの典礼が行われます。
せめて復活のミサには出ようとファミレスでアウグスティヌスを読んでから10時に改めて教会へ行ったら、入りしなに教会の役員さんから「今朝8時に来てたでしょう」と笑いながら声をかけられ、しっかり忘れていたことがバレていました。
なんだか、イエスさまの復活を知らされても「たわごとだ」と信じなかったお弟子たちになった気分です。
(最近はよく朝の時間に、アウグスティヌスに導師になってもらい、聖書を読んでいます)
それにしてもお大師様の命日に気をとられていて、イエスさまの復活を忘れていたなんて、洒落にもなりません。
いや、別にカトリックじゃなくたって、キリスト教徒にとって復活祭はクリスマスより重要な日なのですよ。
イエス・キリストは一度死んで復活なさるところが大事ですから。
弘法大師の方はご入定なされて高野山の霊廟でいまも禅定(宗教的瞑想)を続けられているということになっているのですが、こうして比べると悲惨な死をとげられてよみがえるところに信仰を見出すキリスト教って、ちょっと面白いです。
クリスマスと違って、イースターは商業的な匂いのしない、純粋に宗教的な行事になっているのも不思議です。
(教会の近くの橋。復活徹夜祭というのは荘厳なものです)
そう思うから洗礼を受けようと思ったのですが、私自身が心のどこかで自分に主を裏切ったというか、死に追いやったという後ろめたさがあるのです。
時代も違う遠く異国の教祖さまに、なぜそんな思いを抱くのか、以前自分はクリスチャンに対して疑問に思っていたのですが、とにかく信じるようになってからは、そう感じているのです。
そして復活は、そうした自分の罪に対するゆるしの意味を示しているから重要なのです。
イエス・キリストにしろ、空海にしろ、偉大な宗教家はその時代を精いっぱい生きた人たちですから、その意味において、時代的・文化的背景を背負っていると思います。
同時に、人生に真正面から向き合った人たちですから、その意味において、何かしらの時代や空間を超えた普遍的な真理を示しているとも思います。
自分に合う、合わないはあっても、そうした真理の中に必ず現代を生きる私たちに与えられる力があると思うのです。
今日のミサの聖書朗読には、こんな言葉がありました。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。
そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
(使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-2)
(教会へ行く途中にある結婚式場‐笑)
御影供とは、祖師の命日にその供養をする仏教の法会を指します。
真言宗であれば弘法大師さまがご入定(お亡くなり)になった承和2年(西暦835年)3月21日ですが、新暦に直すと4月22日になり、それを鎌倉まつりの期間にあわせて、4月の第三土曜日と決めているのだそうです。
ということで、これまで事務方として日数をかけて準備してきたわけですが、当日はお稚児さん行列も出て、とても華やかでした。
もちろん私は黒子でしたが、はじめて間近で見る真言宗の法会でしたから、興味津々でした。
私は密教(=esoteric)って、英語の意味でもそうですが、秘儀とか奥義、つまり隠された秘密の「密」だと思っていたのですが、こと真言宗に関しては、「濃密」とか「緻密」、つまり「関係が深いこと」「密度が濃いこと」の意味も入っているんじゃないかと感じています。
それほどまでに、お大師様とのつながりを大切にしているのです。
ほら、八十八か所めぐりでも「同行二人」というではありませんか。
この日ご本尊の大師像が3カ月ぶりにご開帳され、外でお参りする方と直接結ばれるようにと本堂の外まで白布がわたされたのでした。
また、密教は呪術のイメージもあり、弘法大師の超能力者としての伝承と相まって妖しい雰囲気と結びつきやすいと感じてきたのですが、最近読んだ本に密教は宗教であるかぎり自己否定を本質としていて、呪術とは厳格に区別すべきと断ったうえで、次のようなことが書いてあって、自分のこれまでの考えは誤解だと思うようになりました。
「彼(空海)にそのような力(超能力)があったとしても、彼はその力を空思想によって裏打ちされた自己否定を通して行ったと思われる。
空海にとっての「加持」は、自分を空にして他者へと「聖なる」力を与えることであって、自分が所有していると慢心して考えた力を自分の目的のために使うことではない。」
(「最澄と空海」立川武蔵著 角川ソフィア文庫)
(宗教は違えども、どこかミサの雰囲気に似ているのでした)
仕事の大きな行事も終わったことだし、明日の日曜は久々に教会へ行けると思い、翌日の朝7時に家を出て8時のミサに間に合うように着いたら、やっていません・・・。
あれ?もしや?ああっ、思いだした。
今日は復活祭当日でした!
復活祭、カトリックでは復活の主日といわれるイースターは、前日の(日没後から一日がはじまるので)夕方に行われるミサが大事なのです。
私の通う教会では復活徹夜祭といって、光の祭儀・言葉の典礼・洗礼の儀・交わりの儀という四つの典礼が行われます。
せめて復活のミサには出ようとファミレスでアウグスティヌスを読んでから10時に改めて教会へ行ったら、入りしなに教会の役員さんから「今朝8時に来てたでしょう」と笑いながら声をかけられ、しっかり忘れていたことがバレていました。
なんだか、イエスさまの復活を知らされても「たわごとだ」と信じなかったお弟子たちになった気分です。
それにしてもお大師様の命日に気をとられていて、イエスさまの復活を忘れていたなんて、洒落にもなりません。
いや、別にカトリックじゃなくたって、キリスト教徒にとって復活祭はクリスマスより重要な日なのですよ。
イエス・キリストは一度死んで復活なさるところが大事ですから。
弘法大師の方はご入定なされて高野山の霊廟でいまも禅定(宗教的瞑想)を続けられているということになっているのですが、こうして比べると悲惨な死をとげられてよみがえるところに信仰を見出すキリスト教って、ちょっと面白いです。
クリスマスと違って、イースターは商業的な匂いのしない、純粋に宗教的な行事になっているのも不思議です。
そう思うから洗礼を受けようと思ったのですが、私自身が心のどこかで自分に主を裏切ったというか、死に追いやったという後ろめたさがあるのです。
時代も違う遠く異国の教祖さまに、なぜそんな思いを抱くのか、以前自分はクリスチャンに対して疑問に思っていたのですが、とにかく信じるようになってからは、そう感じているのです。
そして復活は、そうした自分の罪に対するゆるしの意味を示しているから重要なのです。
イエス・キリストにしろ、空海にしろ、偉大な宗教家はその時代を精いっぱい生きた人たちですから、その意味において、時代的・文化的背景を背負っていると思います。
同時に、人生に真正面から向き合った人たちですから、その意味において、何かしらの時代や空間を超えた普遍的な真理を示しているとも思います。
自分に合う、合わないはあっても、そうした真理の中に必ず現代を生きる私たちに与えられる力があると思うのです。
今日のミサの聖書朗読には、こんな言葉がありました。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。
そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
(使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-2)