明治帝は、道徳教育に関心があり、道徳における箴言(道徳律)のような文章を発表したいと希望していました。
これに軍人勅諭の学校版をつくりたいという思惑のある山縣有朋を通じて、ときの文部大臣芳川顕正に勅語の作成が命じられました。
命じられた芳川は、当初東京女子師範学校(=のちのお茶女)校長の中村正直に原案を起草させました。
中村正直って福沢諭吉の「学問のススメ」に並ぶベストセラー、「西国立志論」を翻訳した人です。
J.S.ミルを訳したりするクリスチャンの啓蒙思想家だから、中村草稿はきっとバリバリの立憲君主制度に基づいたキリスト教色、西洋博愛主義的色彩の強い文章だったに違いありません。
読んでみたかったな…その原案。
ところがその中村案を法制官僚の井上毅(いのうえ こわし)がボツにして、宗教色を排し、儒学者の元田永孚(もとだ ながざね1818-1891)の意見も取り入れながらできたのが、今の世に伝えられている教育勅語なのです。
その時代の天皇の地位はというと、これは現在とは全く違います。
大日本帝国憲法は立憲君主制で第1条に「国家は天皇がこれを統治する」と書いてあります。
つまり、おことばといっても統治者としての被統治者への意思表示なのです。
だから、法的効力がないからといって、ないがしろにできるような文章ではありませんでした。
すなわち、発表の翌年から10年後にかけて、訓令や施行令によって祝祭日の行事における奉読が定められ、戦時の治安維持法下では神聖化されます。
90歳をこえる方々に伺うと、小学校の校門を入ったすぐ脇に奉安殿という御真影と教育勅語を収める頑丈な建物があって、その前を通るときは必ず立ち止まって最敬礼をしなければならなかったそうです。
そして、行事の際に学校長が奉読する際は、やはり最敬礼の姿勢のまま音を立ててはいけなかったのだそうです。
むかしの子どもは青鼻を垂らしていましたが、すすっただけで叱られるため、頭と一緒に鼻も垂れたまま聴いていたのだそうです。
もちろん、校長が奉読の最中に咬んだり、誤読したりしようものならけん責処分となり、学校が火事や災害の際には、自己の命よりもまず御真影と勅語の謄本を持ち出すことが義務付けられていて、これがために命を落とした教員もひとりやふたりではなかったそうです。
(そのことが、奉安殿設置要因のひとつでもありました)
また、こうしたことは一部の学校の話ではなく、私学も含め日本の学校すべてに厳格に適用されていました。
そして戦後、GHQの命令により御真影や教育勅語とともに、奉安殿も撤去するということになった際、あまりにも頑丈につくられていたため、奉安殿の解体作業中に瓦礫の下敷きになって亡くなった教員すら出たそうです。
こうした経緯があるから、教育勅語が生きている時代に学校へ通った人たち、これを金科玉条のごとくに扱ってきた現場の教師たちは、勅語に対して否定的なのだと思います。
そして、勅語を評価する人たちは、大抵は戦前に学校に通っていたわけでもなし、そうした事情について経験のない人たちが多数を占めています。
もし、先人たちの智慧を大切にするというのなら、教育勅語の功罪双方について、その時代を生きた人のことばに真摯に耳を傾けるべきではないのかなと思います。
それは徴兵経験のない人が、軍隊教育の負の側面を無視して「昔の軍隊は人間教育という面では役に立っていた」などと無責任に発言するのに似ています。
そして、そのような性格と歴史を背負っている勅語を、いまさらに民主主義の骨子に引き直そうとしても、無理な注文だと思います。
勅語を誉める人は、本音では「國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ…」という部分を一番強調したいのに、それがまるまる省かれている口語訳をあえて広めようとするところに、矛盾を感じます。
わたしは教育勅語について、日本の教育史に登場するひとつの文章でしかないと思っています。
そして、戦前の教育についてはそれがどんない名文・美文であろうが、強制はどうかと思うのです。
たとえば、私はキリスト教を宗教教育に取り入れる学校に通って週一度お祈りの時間がありましたけれど、祈りの文言や聖書の言葉を声に出して唱えなさいとか、暗誦しなさいなどと強制されたことはありません。
嫌なら口パクでも良かったし、個人的な良心の問題があるのなら、その時間のみ出席しない自由もあったと記憶します。
仏教寺院が経営する一般の学校にしたって、般若心経を暗唱しなさいとか書けるようにしなさい、などと成績をもって強制する授業が仮にあったなら、それがどんなに良い内容であれ、教育のはき違えではないかと疑うことでしょう。
(お坊さんになるための学校なら別ですよ)
毎日唱えたり、写経したりしているうちに覚えてしまったというのはありだと思いますが、覚えること自体を評価の対象にしたり、賞罰を与えるというのは内容が何であれ、効果も含めて無意味だと思います。
だから、その文章の功罪を明らかにしたうえで、十二の徳目を大切にしようというのなら問題ではないと思うのです。
いっぽう教育勅語そのものは、訳した通り文章の性格が、明治天皇による臣民への意思表示ですから、そっくりそのまま唱和するのはどうかと思います。
幼児や小学生に、明治時代の社会を説明しても、難解でしょうから。
戦前において勅語は、子どもたちの間では、「朕思うに、わがこうそこうそ…」といいながら友だちをくすぐる際の符丁になっていたのだとかで、いつの時代も子どもらしさにホッとして救われます。
もし十二の徳目だとか、儒学思想を大切にしたいというのであれば、それこそ江戸時代の寺子屋のように、四書五経のうちのから有名なくだりを素読させたら良いし(その方がよほど日本語の骨格の勉強になると思います)、漢字になれ親しませたいのであれば、千字文でも読み書きさせたらいいのではないでしょうか。
だって勅語の言う通りなら、勅語のない開国以前にも脈々と道徳は伝えられてきていたはずですから。
そして、このような背景をきちんと踏まえたならば、巷に流布されている口語訳をさらりと読んで「教育勅語のどこが問題なのだ、精神は素晴らしいじゃないか」と手放しでほめそやすこともないでしょうし、毎日朗誦させれば子どもに道徳心がつくはずだなどという安直な発想も出てこないと思うのです。
かえして教育勅語は戦前に皇国史観による洗脳教育に利用されてきたから問題だと声高に叫ぶ人たちにも疑問を感じます。
明治天皇は教育勅語の着想から発表にあたって、純粋な希望をもっていたでしょうし、それが後の世でどのように曲げられて利用されたかを知れば、子どもたちだって近代史を学ぶことになります。
それに、心について子どもの感性にしか感じられない何かがあることは事実だと思うのです。
科学教育の名のもとに、学校では道徳に関する問題には深入りするなという意見には反対です。
「本当の意味などどうせわからないから丸暗記させてしまえ」という態度の対極に、「おかしなものを子どもに教えるな」という考え方があると思うのですが、教育を受ける側の子どもの立場を軽んじているという点においては、どちらも同じような気がします。
なんだか、サミュエル・ジョンソン「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉を思い出し、どちらに対しても背筋に悪寒をおぼえます。
どんなに立派な徳があっても、それをどのようにして後の世代へつないでゆくというのは、昔からのテーマです。
そもそも「伝えるべき徳とは何なのか」「完全な徳を備えた人間など、この世に存在するのか」「はたして他人に徳は教えられるか」という素朴な問いに疑問を持たれた方は、プラトンの「メノン」や「国家」から読んでみることをお勧めします。
特に後者は、題名から政治か何かの本と勘違いされていますが、「人が善く生きるとは」についてまじめに論じられた書物です。
またギリシャ哲学は嫌だという方は、せめて勅語の思想背景でもある「論語」や「孝経」の現代語訳を読んでみたらいかがでしょうか。
お弟子たちを通して語られるソクラテスや孔子の言葉には、現代を生きる私たちにも耳の痛い内容が数多くあります。
私自身は、政治家の関与がどうの、勅語がうんぬんよりもそちらの方がずっと大切だと思っています。
「では真の哲学者とは」と彼は尋ねた、「どのような人だと言われるのですか?」
「真実を観ることを」とぼくは答えた、「愛する人たちだ」
(「国家」プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫より)
子曰。過而不改。是謂過失。(子曰く、過ちて改めず。是れを過ちと謂う。)
子曰く、自分の間違ったことに気付きながら、あくまでも非を通そうとするする人がある。
そこに過失が完成される。
(「現代語訳論語」宮崎市定著 岩波現代文庫より)