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旧東海道へブロンプトンをつれて 40.鳴海宿

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(鳴海宿の東の入口、平部北交差点にたつ常夜灯)

 旧東海道の旅も40番目の宿場である鳴海まできました。
旧東海道の旅7日目は、名古屋のホテルを出立し、名電長沢駅に到着したのが840分だったため、赤坂宿と藤川宿の間からはじまったこの日の行程は、鳴海宿に到着直後に時間切れとなりました。
距離にしておよそ42km
歩行ならこの距離は「よく歩いた」ということになるのでしょうが、ブロンプトンで走ったとなると、旧東海道踏破を目的とした旅の一日の走行距離としては、最低ライン(50km)を切っています。
500km弱ある旧東海道(宮の渡しの区間を除く)を、仮にのべ10日で踏破するとして、一日平均は50kmになります。
この距離自体はブロンプトンでの一日の走行距離としてそれほどでもありません。
しかし、これまでご紹介してきたように、旧東海道にも箱根の山道や、必ずしも鉄道に沿っているとは限らない場所で時間切れになることもあるため、一日あたりの走行距離を50kmにしようとしても、なかなか難しいのです。
結局、距離を稼げない日との帳尻を合わせるため、今回のようにオール名鉄線に沿っている区間は、走行距離を少しでも伸ばしたほうが、経済的になるわけです。
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 7日目はおおむね天気は良かったものの、暮れの日の短い時期だったこともあって、17時前には鳴海駅から名鉄に乗り、名駅まで行って食事を済ませてから丸の内付近のビジネスホテルに入ったのですが、ユニットバスの湯船に長時間身体を付け続けても、全然暖かくならなかったのを覚えています。
名古屋は夏暑く、冬寒いといわれますが、本当ですね。
翌朝、2013年の大晦日になるわけですが、また名駅から鳴海まで戻って、西へ向かうことになりました。
この日は二泊三日の最終日で、帰りの新幹線の時刻が決まっているため、列車の時刻をにらみながらの旅になります。
朝ホテルをチェックアウトする際に、Cバッグは宅急便で自宅へ送り返してしまい、ショルダーバッグに貴重品や切符、地図にタイヤ―チューブなど、最低限のものだけ入れて出発します。
記録をみると、鳴海宿から走り始めたのが朝の8時半ということで、前日の反省を全然活かしていません。
やはり、冬場に向かい風で浜松から走ってきたのが、身体に堪えていたのだろうと思います。
天候は曇天で、かなり分厚い雲が垂れこめている、とても寒い朝でした。
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(左;旧東海道の中島砦跡付近にたつ石碑 右;中島橋から瑞泉寺の山門をみる)
 
ということで、ここから旧東海道第八日目の行程ということになります。
鳴海宿は、次の41番目が伊勢湾を渡海する宮の渡しの乗船場ですから、ここまで海の波音が聞こえたから鳴海なのかと思いきや、異説もたくさんあるようです。
平らな土地を意味する「なるい」から転化したとか、アイヌ語で穏やかな海を意味する「ナルミナ」が語源だとか、神武東征の折にここから船出した故事から成海神社が設けられ等諸説あります。
いずれにしても、西三河平野と尾張平野の境界にある丘陵地帯をぬけて、この宿場からはほぼ平らな土地を旧街道はゆくため、ほっとすることは確かです。
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(左;上流からみた中島砦跡=右側 右;中島橋からみた中島砦跡=左側)

宿場の東端、平部北交差点(35.073621, 136.956287)から旧街道をゆくと、400m先で直線だった旧東海道が右へカーブします。
左には飛脚と旅姿の女性を彫った比較的新しい石碑がありますが、このあたりが中嶋砦跡(35.076936,136.953952)です。
桶狭間の戦いの際、ここで織田信長が今川義元の動静と所在を窺っていて、確定的な情報を得てから谷筋を忍び寄るようにして接近し、麓からおけはざま山の本陣に奇襲を仕掛けたというのが最近の定説になっているというお話は、前々回にいたしました。
70m先の中島橋で扇川を渡ります。
左手をみると、有松方面から流れてきた手越川との合流点が目と鼻の先に見え、その向こうに高架化した名鉄本線が走っています。
中島砦は二つの川の合流点にあったそうです。
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(左;鳴海宿の桝型 右;本町交差点
 
橋を渡った右前方には、一段高い丘の上に瑞泉寺(35.078435,136.954103)という立派な曹洞宗のお寺が見えています。
県の重要文化財である立派な中国風の山門は黄檗宗の様式を忠実に再現しているそうで、額には金字で「曇華峰」の文字が読み取れます。
曇華(どんげ)とは檀特(ダンドク)と呼ばれるカンナ科の植物のことです。
直伝弘法霊場第一番とありますが、なんで曹洞宗のお寺に弘法大師なのでしょう。
これは大正の頃、四国の善通寺貫主より直伝証を拝受して、四国に雰囲気の似た知多半島一帯に八十八か所の霊場が開設され、その1番札所がこのお寺なのです。
弘法大師信仰というのは、宗派を超えた部分があって、事実直伝弘法霊場には真言宗のお寺はひとつも入っていません。
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(誓願寺)

そのまま旧東海道を西へ進みます。
このあたりから宿場然とした雰囲気になってゆきます。
230m先、右側に創業150年以上の老舗和菓子店のある場所で、旧東海道は右折、左折とクランクします。
クランクして左側の2軒目、名古屋市緑生涯学習センター(35.079460, 136.951775)のある場所が、脇本陣跡です。
石碑がおしらせの左下に石碑があるのですが、見落としがちです。
センターから140mさきが本町交差点(35.080331, 136.950557)になります。
本町交差点を左折すれば、扇川を渡ってすぐに名鉄本線の鳴海駅前広場に出ます。
鳴海駅(35.078640, 136.950793)は名駅から急行で4つ目、退避線があって緩急接続の行われる駅です。
また駅の東側には鉄道車両を含む大型車両を制作する日本車両製造の鳴海製作所があります。
かつては引き込み線があって貨物車両をつくっていたそうですが、今はJR東海の傘下に入って、建設機械車両や発電機をつくっているそうです。
ここで旧東海道をはずれ、信号を渡って右折しましょう。
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(誓願寺境内に残る、松尾芭蕉の供養塔のうち最古のもの。後ろへまわると日付が読めます)

 本町交差点を右折すると、県道242号線にはいり、すぐに登り坂にかかるのですが、左側2軒目が浄土宗の誓願寺(35.080834, 136.950654)になります。
さきほど旧東海道沿いにあった瑞泉寺が直伝弘法霊場第一番なら、ここは第二番のお寺です。
ついでにいえば、誓願寺の50m西側にある曹洞宗の如意寺が第三番なので、このまま霊場巡りをしてお大師さまと一緒に知多半島を旅してしまいそうです。
旅の途中の道草って、登下校同様に少しうしろめたくも楽しいものがあるのです。
だいたい、そんな機会でもないと知多半島なんて足を踏み入れないではないですか。
もっとも、直伝弘法霊場は知多半島を時計回りに一周して、最後は西側の付け根の東海市で終わるようになっているそうです。
よぉし、いっちょう新シリーズはお遍路の格好をしてブロンプトンを金剛杖代わりに鈴付けて、四国八十八か所巡りでもやりますか。
(リッチーさん、階段も下れる前サス付きのブロンプトン四国スペシャルを開発して下さい…冗談です)
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(鳴海城址の天神社)
 
誓願寺に話を戻します。
境内には松尾芭蕉の供養塔のうち、最古のものといわれる石塔があるのです。
旧東海道でもあちこちに足跡を残している松尾芭蕉が、大阪の門人同士の喧嘩を仲裁に出かけて、当地で亡くなったのは、元禄七年(1694年)1012日の午前4時でした。
ときに芭蕉51歳。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句は有名です。
このブログも芭蕉の句とは別の意味で「旅に病んで」いますが、枯野をかけめぐるというのは、子どものころに戻ったような表現です。
あれ、服に色々なものがついてしまうのですが、冬の日に枯野をガサガサ駆け回るのって、子ども時代の楽しい思い出です。
遺言により、遺骸は翌13日には大津の義仲寺(ぎちゅうじ:あとで東海道の旅に登場すると思います)に葬られました。
トラックもない時代にどうやって大阪から大津まで一日で運んだのでしょう。
誓願寺の供養塔は、翌月の月命日(同年1112日)にお隣の如意寺に建てられたのですが、その後門人の菩提寺である誓願寺に移されました。
石塔って彫って準備する時間も必要だし、芭蕉門人たちの情報ネットワークはどれほど発達していたのやら。
流石、隠密説まで飛び出す芭蕉です。
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(善照寺砦跡の公園)
 
誓願寺を出て旧東海道を背に、さらに坂をのぼってゆきましょう。
短いけれど急な坂道です。
60m先、坂の頂上付近の右側にあるのが、天神社(35.081304, 136.951384 あまつかみしゃ)です。
天神社から県道をはさんでお向かい100m西にある鳴海城址公園までが、お城の跡になります。
桶狭間の戦いでも登場しましたが、鳴海城は織田信長のお父さん、つまり織田信秀の代のころは、織田方の城でしたが、信秀の死後、信長のあまりの大うつけ(大馬鹿)ぶりに城主の山口教継(やまぐち のりつぐ)は愛想をつかして今川方へ鞍替えしました。
これに対抗して信長も先ほどの中島砦など、けん制するための陣地を周囲に設けました。
そののち、桶狭間の戦いの前には、鳴海城を息子に任せて自らは織田方の大高城、沓掛城を調略(外交)によって今川方に寝返らせています。
しかし、信長の讒言により裏切り者の濡れ衣を着せられた山口親子は、主君今川義元によって1560年に切腹させられます。
同じ年、その義元が信長の奇襲に遭って討たれたため、義元の首級と引き換えに鳴海城は開城しました。
こうした動きを見ていても、織田信長は情報戦において今川義元を圧倒していたことが分かります。
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(鳴海宿本陣前)

天神社の前を東方向へ、左手に鳴海小学校をみながら坂をのぼっていってみましょう。
580mさき左側にあるのが、善照寺砦(35.081559, 136.957161)です。
鳴海城のおさえのひとつとして、織田方が築いた砦で、桶狭間の戦いの際、信長はここに旗指物などを残してからひそかに丘を下り、中島砦で襲撃のチャンスをはかっていたというお話を、前々回にしました。
鳴海城から直線でも600mないこの場所で敵味方が向かい合っていたということを考えると、戦国時代って鉄砲も含めてかなりの接近戦を行っていたのではないかと感じます。
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(旧東海道が西から北へ向きを変える作町交差点)

さて本町交差点まで戻って旧東海道の旅を続けます。
西へ80m、最初の交差点の左手前角に、お祭りの山車を入れる車庫(35.080461, 136.949720)がありますが、その前に鳴海宿本陣跡の立て札がたっています。
この案内板、完全に京都の方向を向いていますので、江戸の方角から自転車で来たらまず気がつきません。
鳴海宿の900m南西に鳴海八幡神社(35.074497, 136.943441)があり、逆に800m北方に成海神社(35.086596,136.953312 もとは天神社の位置にあった社が移転)があり、秋の例大祭では前者が表方、後者が裏方をつとめ、表大祭ではここに収納されている車も含め、幕末から明治にかけて製作された四台の山車が巡行します。
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山車と並んで祭に登場するのが、猩猩(しょうじょう)です。
猩猩とは仏教や中国古典に登場する、二足歩行する架空の動物です。
祭りでは、竹枠で編んだ大きな猩猩人形をかぶり、子どもを追いかけまわすそうで、赤い大きな手でお尻を叩かれた(現在は頭を撫でるそうです)子どもは、夏に風邪をひかないといわれています。
「猩猩 鳴海」で検索すれば、画像や動画が出てきますけれど、人形の表情が笑っているようで実はちっとも笑っていないような、とにかく不気味です。
猩猩は能の筋書きから大酒のみとされているので、文章だけ読むと大男の酔っ払いが、「悪いことする子はお尻ペンペンだ」と折檻をもくろみながら、子どもたちから「猩猩の馬鹿」とはやし立てられ、ちっとも追いつけないユーモラスな姿を想像するのですが、いまは子どもを狙った犯罪や虐待が社会問題になっているので、お尻を叩く行為が洒落にならないのかもしれません。
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(左;三皿交差点 右;旧東海道から見る長翁寺伽藍)
 
さて、本陣跡の前を過ぎ、100m先の作町交差点(35.080836, 136.948639)で旧東海道は鳴海城址のある丘陵の崖線にそって右手へカーブし、西から北へと進路を変えます。
280m先の三皿交差点(35.083339,136.949211)で広い県道を横断します。
交差点の右手前方には、曹洞宗の長翁寺(ちょうおうじ 35.083444, 136.949729)がありますが、このお寺のご本尊である薬師如来像は、もともとは信長の持仏で、末弟の織田長益(ながます1547-1622=有楽斎)によって寄進されたものです。
一向宗を弾圧し、比叡山を焼き討ちした信長も、病気に罹患することだけは怖かったみたいですね。
次回は三皿交差点より41番目の宿場、宮を目指します。
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