日吉駅前から普通部通りを進みます。
およそ300m先でふたまたに分かれます。(35.552094, 139.643887)
左へ行くと慶應の普通部、右へ行くと日吉台小学校の校庭を左に見ながらやがて道は急な下り坂にかかります。
この坂は赤門坂と呼ばれています。
名前の由来は坂の下の方に赤い門の家があるからです。
東大とか、赤い血とか関係ありません。
そもそも弁柄で塗った朱色の長屋門のことを赤門といい、けっこうあちこちにあったものなのです。
この近辺では鶴見区の馬場という場所に現存しているはずです。
赤門坂は下からのぼってゆくと一見ゆるそうなのですが、上へ行くにしたがって斜度が増し、最後はブロンプトンでは直登すると前輪が浮きかねないほどになります。
いままでこのシリーズのコース取りは、渋谷を起点に横浜へ向かっても、反対に横浜を起点に渋谷へ向かっても、どちらでも走れるようにゆるい坂を選んできたのですが、赤門坂だけは双方向というわけにはゆきません。
それだけ末吉台地の南斜面が急だということになるのでしょうが、綱島駅から日吉駅方向に向かって走る際には別のコースを取った方がよいということになります。
そのコースはまた別途にあらためてご案内しようと思います。
綱島駅方面へ向かう際には、赤門坂を下って小さな石の祠があるY字路(35.550475, 139.639086)を左折するのですが、ここは右へゆきましょう。
日吉駅から920mほどで、天台宗の寺院金蔵寺(35.550900, 139.637780)の前に出ます。
ご本尊は智証大師(円珍)作と伝えられる不動明王で、9世紀後半、貞観年間の創建ということですから、平安時代からのかなり古いお寺です。
智証大師は最澄や空海とともに唐へ渡った八人の留学僧のうちのひとりで、天大門宗の宗祖です。
空海(弘法大師)の甥でもあります。
その昔は東三井寺と呼ばれ、国家鎮護祈願の勅願寺院であり、修験者の道場でもあったそうです。
その名残なのか、本堂裏手から奥の院へと続く山道があります。
入口は彫刻が見事な弁天堂。
そこをくぐって右に折れ、階段を上ってゆくと斜面に小さな日吉権現が鎮座しています。
これが日吉の地名の由来になった権現で、矢上にある日吉神社はもともと神明社を名乗っていたそうです。
地元なのに全然知りませんでした。
奥の院近くの高台からは、これから向かう綱島台が見えています。
境内に戻って梵鐘は徳川幕府二代将軍秀忠が寄進したものだというし、本堂の前に目立つ織部灯篭はかなり派手だし、このお寺は東横線沿線の中でも屈指の名刹ではないでしょうか。
織部灯篭には最澄の「山家学生式」のなかからの言葉、「一隅を照らす」の文字が読めます。
意味は「社会の片隅にいながら、社会を照らす生活をする」だそうです。
浪馬の光は蛍にもかなわず…。
なお、映画沈黙とは関係ありませんが、織部灯篭とは別に、本堂に向って左手の地蔵堂脇には、江戸時代初期のキリシタン灯篭があります。
また、前回ご紹介した興禅寺に続き、こちらも横浜七福神の2番、寿老人であります。
見どころ満載の金蔵寺を後にして、Y字路まで戻って右折し、一つ目の角を左折、あとは道なりに進みます。
400mさきで信号(35.547289,139.639574)があらわれますが、これがバス通りで右手へ100mほどゆくとあるのが大塚製靴日吉工場(35.547253, 139.637957)です。
ここは小学生の頃、社会科見学先はお菓子工場だとお土産を期待して行ったのに、着いたら靴工場でがっかりした思い出があります。
大塚製靴というよりは、「ハッシュパピー」って言った方が通りますか。
ちなみにバブル以降、バーバリーの靴もライセンス生産をしているそうで、うう、ブロンプトンに乗る者としてはバーバリーのスニーカーなんぞを履いて乗りたいのですが、それが地元製だと種明かしされてしまえば途端に購買意欲が落ちてしまうのでした。
これも小学生の時に見学した際教えてもらったことですが、大塚製靴は明治5年に芝で開業しました。
当時の西洋靴はサイズが大きくて、どれも日本人には合わず、日本人にあった西洋靴を制作したところから、製品が海軍軍人の目に留まることになり、明治天皇の靴を製造したところから、皇室御用達、そして軍靴の製造を引き受けるようになったそうです。
生活雑貨でも食べ物でも、新しい文化が海外から入った時、それを日本人に合わせて作り直してしまうところが、この国のすごいところだと思います。
日吉工場には小さいですが資料館が併設されていますので、平日に通りかかったら立ち寄ってみましょう。
資料館は工場正面の門に近い場所にあります。
入ってすぐ右側には、手工業時代からの靴の製造の様子が展示され、ミシンなどの機械が並んでいます。
そして、真ん中には足長120㎝、重さ65㎏のサイズの大きな革靴が。
この靴の大きさだと、身長は7m以上になるのでしょうか。
さらにその向こうには世界の様々な靴がガラスケースの中に並んでいます。
そういえば、靴って自分が買う時でもなければじっくり見るということはありません。
「足元を見る」という言葉がありますが、人の弱点につけこむというよくない行為を指します。
これは駕籠かきなどが旅人の足元を見て疲れ具合をはかり、弱っている人には法外な値段をふっかけたところからきているそうです。
足元には立場など弱点という意味が含まれているのでしょう。
そう考えると、靴にことさらこだわる人もどうかと思ってしまいます。
たまに「攻撃こそ最大の防御だ」とばかりに人の足元ばかりを見ている、つまり他人のあら捜しばかりしている人に出会いますが、そういう人ほど自分の足元に火がついているのには気がついていないものです。
またその手の人は、いくら他人の欠点をあげつらったところで、自分の正しさを証明することにならず、却って手を広げれば広げるほど自分の弱点が浮き彫りになって、結局は恐怖心を基に防御せねばならなくなるという、単純明快な事実すら理解できない人が殆どです。
きっと何かに憑かれているのでしょう(笑)
資料館つながりで、大塚製靴日吉工場前をさらに1㎞ほど西へ進み、日吉本町四丁目西側交差点(35.547890, 139.629202)で神奈川県道荏田綱島線に合流したら右折、次の信号(35.548185, 139.628229)を左折、450m先の吉田口交差点手前にあるのが、セルロイドハウス(35.544492, 139.626467)です。
ここでは懐かしいセルロイドの製品が展示されているそうです。
横浜の歌に、「赤い靴」とならんで「青い目の人形」は有名ですよね。
あの人形がセルロイドでした。
なんとも馬鹿な話ですが、両曲とも戦時中は敵国の歌として、歌うことを禁じられていたそうです。
そして親善目的で米国から贈られたセルロイド人形も、竹やり訓練の標的にされたり、焼却処分されたりしていたことは有名な話です。
同じ日本人が殺されてゆく状況で、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという心情は分からないでもないですが、自分が冷静さを失っていることには気づけよなとも思います。
(そんなくだらないことをしていた過去を知っているから、私は靖国の英霊の御霊がどうとかいう話には興味が持てないし、「海ゆかば」の音楽性は素晴らしいと思っても、あれを準国歌などと呼ぶのは嫌なのです)
「青い目の人形」は野口雨情作詞で作曲は国学者本居宣長の6代のちの子孫、本居長世です。
楽し気なヘ長調から「日本の港へ着いたとき…」で一転して物悲しいヘ短調に移り、「やさしい日本の嬢ちゃんよ」で再びヘ長調へと戻る、童謡にしては物語性のある歌なのでした。
戦後はその反動で、国際交流万歳になって、しばらくして外国文化の流入に危機を感じると、またぞろ「美しい日本」などと言ってみたりと、なんで極端から極端に走るのでしょう。
戦後はその反動で、国際交流万歳になって、しばらくして外国文化の流入に危機を感じると、またぞろ「美しい日本」などと言ってみたりと、なんで極端から極端に走るのでしょう。
いま、オリンピックを控えているせいか、「困っている外国人を見かけたら、英語で話しかけよう」なんてパンフレットを見かけました。
しかし、自分で海外へ出かけて必要に迫られて英語や現地語を使うことと、日本で頼まれてもいないのに英語で話しかけるのとは意味が違う気がします。
なんでもかんでも相手にへりくだることは「おもてなし」とは違うとも思うのです。
しかし、自分で海外へ出かけて必要に迫られて英語や現地語を使うことと、日本で頼まれてもいないのに英語で話しかけるのとは意味が違う気がします。
なんでもかんでも相手にへりくだることは「おもてなし」とは違うとも思うのです。
以前、オリンピックが決まった時、合掌して「お・も・て・な・し」というのが流行りましたよね。
あのとき、周囲のバイリンガルはことごとく「日本人が気をまわして英語で話しかれば、外国人観光客は日本語に触れる機会を奪われる」とのたまうておりました。
英語で話しかけることがおもてなしではない、困っている人を気にかけてあげることこそがおもてなしなのだ!とも力説しておりました。
思いやりとは、一方通行ではなく相互通行ではじめて通じるものだと思うのです。
思いやりとは、一方通行ではなく相互通行ではじめて通じるものだと思うのです。
前回のお話とは真逆になりますが、外国人観光客の皆さん、日本で道に迷ったら、ぜひ、片言の日本語とボディランゲージをお試しくださいませ。
できることなら、歌の一つでも覚えて帰ってください。
「青い目の人形」なんて、日本っぽくてぴったりじゃないですか。
こちらも片言の英語とジェスチャーでお返しいたしますので。
こちらも片言の英語とジェスチャーでお返しいたしますので。
あれ、セルロイドの話からなぜこんなに脱線したのでしょう。
セルロイドハウスより東寄りに、綱島郵便局があります。
そのすぐ南側、綱島台から続く崖との間にある茅葺の古民家が、飯田邸です。
現在もお住まいなので、長屋門の外からしか見学できませんが、立派な豪農の館です。
奥の母屋が明治22年の建築、手前の長屋門は江戸後期ということです。
門に向かって右手には、濠まで備えています。
江戸時代、この辺りは幕府の天領(直轄領)と旗本直参の知行地が混在していました。
飯田氏は鶴見川の治水と新田開発に功績があった家で、このあたりの庄屋をたばねる大庄屋でした。
そういう役割からか、明治維新のおりにはほかの庄屋ともども官軍の前に引き出され、幕府側につくか官軍側につくか尋問されたそうです。
もう一度、大塚製靴の東側、ルートがバス通りと交差する信号へ戻って南下します。
日吉駅のある下末吉台地を下ったのち、正面に見える綱島台までは2㎞近くの平坦な道が続きます。
むかしは建物が何もなくて田んぼが広がり、東横線は海の中を走っているようだったといいます。
ひょっとしたら綱島も遠目には島に見えたのかもしれません。
(ここは昔東京湾の入り江であり、綱島の地名由来に、「連なる島」が転じたという説があります)
東横線の駅間距離の中でも、日吉綱島間は2.1㎞と断トツで長く、高架線となった今は電車が最高速度を出して駆け抜けてゆきます。
線路をはさんで東側の綱島街道沿いには、1960年から松下通信工業の本社工場がありました。
その松下通信もパナソニック・モバイルコミュニケーションズというカタカナの名前に変わってここから出てゆき、現在建設されているのはアップルのテクニカル・デベロップメント・センター。
アップルの研究者がここに通うわけですか。
バス通りを横断する信号(35.547289, 139.639574)から1㎞道なりにすすむと、綱島街道長福寺信号に出ます。
ここは横断して綱島街道を横浜方向左側の歩道を走りましょう。
綱島街道は車も多いし、駅が近いためか歩行者自転車も多く、右側歩道をゆくのは危険です。
諏訪神社の前を通り、切通しを抜けた直後に左折し、街道を回り込むように横断すると綱島駅はすぐそこです。