先日、戦前のことを調べるために、井上成美氏の伝記を読んでいました。
井上成美さんという人がどんな方かご存じない方は、Wikiをご覧ください。
それだけファンが多いのか、あまり有名ではない軍人さんの割には、かなり詳細に書いてあります。
以前、私は彼の教育者としての側面(特に戦後の近隣の子どもたちへの教育)に学ぶものが多いと感じて、伝記を取り寄せて読んだのですが、これが面白くて読んでいて実に痛快でした。
彼は昭和17年10月から昭和19年8月までの広島県江田島の海軍兵学校校長をされていました。
そこで教官を対象とした研究会を主宰したのですが、のちにその会で教育理念を講述した内容が「教育漫語」と題して印刷、配布されました。
伝記の巻末には、資料としてこれらが載っているのですが、現代にも通じる内容ですし、これまた作者の性格を反映してか、理論的で簡明な文章なので、ご紹介したいと思います。
なお、当時は旧仮名遣いで送り仮名もすべてカタカナのため、原文はこんな感じです。
『躾教育ハ元来家庭ニ於ケル子女ノ教育ニ於テ、ソノ言動ニ就キ善キヲ賞シ悪シキヲ戒メ、連綿不断ノ是正ニヨリテ良習慣ヲ付与スルコトニ始マルナリ。』
これでは固すぎるので、分かりやすく現代語訳に直しました。
以下は「其の一」のうちの「躾教育」についての部分です。
このほかにも、数学教育についてとか、外国語教育についてなど、ユニークな話がたくさんあるので、気がついたらまた現代語訳したいと思います。
兵学校での教育については、16歳から19歳を入学させて3年(のちに戦局悪化により2年間に短縮)の教育期間が設けられていましたが、井上校長は情勢に抵抗して、基礎教育、とくに人間教育を重視したといいます。
いま、上長を親とか教師、部下や生徒を子どもに置き換えて読んでみても、なるほどと思うところがたくさんあります。
躾教育
躾教育は、もともと家庭内の子どもたちの教育において、彼らの言動につき、良いところは褒めて、悪いところを戒めることを続け、相手を是正してゆくことによって、良い習慣を身につけるところからはじまります。
これをたくさんの生徒が学ぶ軍隊の学校において実施する場合は、やり方を多少変えねばなりませんが、「良い習慣を身につける」という根本的な主旨については、変わるところがありません。
ただ、対象とする人数が多いので、その徹底に教員全員の不断の努力が必要となるのです。
躾は良い習慣を身につけることが真の目的です。
したがって、罪を犯して刑罰法規に触れたり、規律に違反して懲罰を受けたりするような重大な言動を対象にするのは、本来の目的ではありません。
つまり、日ごろのちょっとした振る舞いや言葉遣いについて、細かくて相手の気がつかない点を指摘してやり、それを反復し、実行させて本人の習慣にしてもらうことが本当の目的なのです。
だから、上長自身の言動が、部下の躾の基準になることは必至です。
上長が自ら気がつかずに誤った言動をしている部分については、部下を躾けられるはずがありません。
生徒の躾について本職が気付いたことを二、三あげます。
(1)西生徒館と庁舎の間の最短距離を生徒が毎日往復するために、体操場の芝生を傷めて小道ができているのはいけません。
(2)卒業式の日に候補生になって乗船する際、先を争って「デッキハウス」に靴を履いたままあがる人がいますが、残念なことです。
(3)官舎を訪問した生徒の靴や、スリッパの脱いだあとに整えられている躾をみて、敬服しています。
以上の例のように、躾の要点はきわめて些細なことを見逃さないことにあるのです。
大雑把な人のいう、「そのようなことは天下の形勢に影響がない」とみられているような事柄にこそあるのです。
なお、躾の対象になる事柄は、人それぞれによって右でも左でもよい程度のことであり、多人数で生活している状況で、少数の生徒が違反するような出来事は大事件ではないので、ともすれば見逃してしまう場合が多いのが普通です。
躾教育上、生徒に接する教員の振る舞いに、基準を設けられないものでしょうか。
私に一案があるので、どうぞ研究してみてください。
「自分が考えるように他の皆が考え、自分の考えるように皆が発言し、自分が行うように皆が行動するならば、その社会なり、団体なりがいかにも良くなり、愉快になるはずだと認められるようなことであれば、それを実行し、これに反することならば、行わない」
躾教育に関する注意事項
(1)躾教育においてその方法を間違えて、「~してはならない」を連発することによって、生徒の精神力が根底から上長より責められるような事態にならないためだけに努力を注いで、遙か彼方にある善い目標を求めて進もうとする努力が失せないようにすること。
(2)躾は時には軽い体罰を必要とする場合があります。
これを実行する場合は、ぜひとも簡単ではっきりと、直接的なやり方で、男らしく後をひかないように注意する必要があります。
(3)学校内の出来事や物事は、生徒の躾上有害な事柄が無くなるように注意が必要です。
・不要な電燈の消灯・清潔・整頓、几帳面・懈怠のないこと・当直の教員・生徒の尊重
(昭和18年1月9日講話より)
今の大人たちは、自分も含めて「躾をすべきところを取り違えている」という話を聴いたことがあります。
つまり上の文章の中で井上校長のいう、本来の主旨から外れたところで躾を行おうと躍起になり、そのくせ肝心要な所は「些細なこと」として見過ごしてしまうというのです。
また現代は、何でもかんでも法律や刑罰で物事を解決しようという風潮ですから、躾の範囲がどんどん狭くなっているような気がします。
たとえば、スマートフォンをいじりながら、両耳をイヤホンで塞ぎながら自転車に乗るのは、少し前なら躾の問題でしたが、いまや刑罰の問題になってしまっています。
そして、他人を注意することや、非難することが、本当に「その社会なり、団体なりがいかにも良くなり、愉快になるはずだと認められる」ことなのかどうか、考えてから発言する人がどれほどいるでしょう。
私自身、人前で教育云々をいえたきりではありませんが、遙か彼方の目標を求めて進もうとする努力だけは、失うまいと思いたいです。