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TY12元住吉駅からTY13日吉駅へ

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元住吉駅西口のブレーメン通りと、旧綱島街道の交点( 35.565426,139.652996 川崎信用金庫元住吉支店前)から日吉駅方面へ向かいます。
旧綱島街道といいましたが、東横線が開通した当初、線路に沿って東側を並行に走る現行の綱島街道は無く、こちら西側の道だけが線路に沿って存在していました。
もともとの綱島街道というのは、別称稲毛道と呼ばれる旧鎌倉街道をさします。
その場合は、前回ご紹介した子母口やもっと中原街道に近い地点を通っております。
 
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古い道らしく右へ左へとカーブをきって駅付近の住宅街を300m抜けると、左手に東急電鉄の教習所育成センター(35.562923, 139.651961)の建物が見えます。
敷地の中には東急電鉄の社員研修施設があり、その玄関には以前日吉駅の北側にあった東急電鉄発祥の地碑が移設されています。
残念なことに、研修所入口に向って建っているため、背中しか見えません。
 
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その先は右に電車の車庫を見ながら進みます。
研修施設から80m先の右側、山門が建物にビルトインしているようなお寺が、日蓮正宗の持経寺(35.562491, 139.651459)です。
ここはコーヒーカップ裁判の舞台になったお寺です。
簡単にいえば、遺骨を壺ではなくコーヒーカップに入れて保管していたと言いがかりをつけられたのですが、寺の側に落ち度がなかったことが最高裁まで争われて確定しています。
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その木月天王森交差点(
35.561180, 139.650609)で例の尻手黒川道路を横断します。
左側が東急元住吉電車区で尻手黒川線からみると、電車が並んでいます。
東横線は渋谷から先副都心線に乗り入れるようになってから、この車両基地には東急のほか横浜みなとみらい線、東京メトロ、西武鉄道、東武鉄道、都営地下鉄、さいたま高速鉄道などバラエティに富んだ車両が並ぶようになりました。
もう少しすると、相模鉄道の車両も入ってくるのでしょうか。
もう、乗り鉄の自分でさえ何が何だか分からなくなりそうです。
 
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尻手黒川道路を東方向へ行ってみましょう。
280mさき、現在の綱島街道との交差地点が、木月四丁目交差点(35.560211, 139.653479)です。
ここは昔地元では「焼肉交差点」という愛称で呼ばれてきました。
自分が子どもの頃、交差点の四隅が全部焼肉屋さんだったのです。
それが1店欠け、もう1店欠け、残っていた2店のうち1店は、建物の耐震性の問題から元住吉駅近くへ移転し、最後に残っていた店も今年に入って閉店してしまい、ついに昔話になってしまいました。
今は南西角にあった老舗がブレーメン通りの西端にあるビルの地下1階で営業していますので、在りし日の想いに馳せたい方は訪ねてみてください。
 
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木月四丁目交差点の200m南東裏にあるのが、日蓮宗の妙海寺(35.558472, 139.654380)です。
1534年、戦国時代の頃、この地の郷士だった鳥海讃岐という侍の一家が、疫病で寝込んでいました。
すると3月のある晩に主人の枕元に薬師如来があらわれ、明朝この付近を通る高僧に祈祷を頼めとお告げがあったそうです。
翌朝、その通りにすると病はたちどころに癒えたため、讃岐はその高僧、日正上人に帰依し、法華経の「妙」と自分の名字の「海」をとって、妙海寺を創建したということです。
この手の「夢のお告げ」は結構あちこちで聞きます。
いわゆる第六感というやつでしょうか。
時代が下って江戸時代初期、このお寺は二代将軍徳川秀忠の五女、和姫の祈祷所となります。
彼女は中宮として後水尾天皇に嫁ぎ、のちの明正天皇(女帝)の母になります。
なるほど、それで山門の扉に菊の紋章がついているわけが分かりました。
なお、この結婚、和姫の祖父にあたる家康が政略結婚として強引に縁談をすすめたものの、大坂の陣や先帝の崩御などが重なって延期となっているうちに、天皇がお気に入りの女官に皇子を産ませていたことなどが発覚し、かなり揉めたようです(およつ御寮人事件)。
 
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さて、木月天王森交差点に戻って、南下しましょう。
270mさきの中吉橋(35.558777,139.650051)で矢上川を渡ります。
矢上川は、東名高速道路の川崎インター南西、ちょうどたまプラーザ駅前の横浜市青葉区美しが丘と市境尾根をはさんだ川崎市宮前区犬蔵付近が源流となります。
そこから下末吉台地の北側の縁を流れ、この中吉橋より少し下流で大きく南へ向きを変えて鶴見川に注いでいます。
いまでこそ、鶴見川の支流ということになっていますが、実際には多摩川の流域を流れており、縄文海進以前は多摩川の支流であったと推定されています。
 
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中吉橋をわたって50m先の道路右手には、現在南欧風の住宅が建っています。
(見えませんが、住宅裏手には日吉不動尊(35.558777, 139.650051)という小さなお堂があります)
この地はかつて、いまは元住吉の東急教習所研修センター前に移設された、「東急電鉄発祥の地碑」がたっていました、
かなり大きな石碑で、電車の車窓からもよく見えたものです。
なぜここが発祥の地なのかというと、ここから南側の東横線の線路は、下末吉台地を大きく掘割してそこを抜けています。
げんに日吉駅も今のように地下駅になる前から、掘割の下にホームがあって、駅舎はその上の橋上にあるというスタイルでした。
これは東横線の前身である東京横浜電鉄を開設する際、この台地を掘った土砂でもって、新丸子から日吉までの間に築堤をこしらえて、そのうえに線路を敷いたからなのだそうです。
そういえば、日吉~元住吉間の南半分と、武蔵小杉駅周辺は、線路が高い場所にありました。
 
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なお、のちに強盗のあだ名で呼ばれる東急電鉄の創始者五島慶太氏は、東横線開設当時、昭和恐慌の影響もあって、あまりにも事業がうまくゆかないので、資金繰りに苦しんだそうです。
借金を申し込みに都内の保険会社をまわったものの、全部断られて雨中に日比谷公園を歩いているときは、そこにある松がみな首吊り用に見えたほどだといいます。
その苦境にあって失わなかったのは信念と忍耐だったそうです。
そういえば、東横線の開設当時、彼が早朝に馬を飛ばして各駅の駅員を起して回ったという話を老人から聞いたことがあります。
いま防音壁の向こう側をひっきりなしに走る東横線の昔に、そんな時代があったことを知る人はどれほどいらっしゃるでしょうか。
 
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東横線に沿って南へ進むと、中吉橋から150mで信号機のある交差点(35.557525, 139.649067)に出ます。
左折してガードをくぐり、綱島街道を仲の谷交差点(35.557261,139.649957)を渡って100m先を左折し、矢上川の南にある丘の上に登ってみましょう。
坂の上には日吉神社(35.557261, 139.649957)があります。
創建年代は不明なものの、矢上村の総鎮守として江戸期を通して信仰を集めてきました。
 
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神社の隣にあるのが、慶應義塾大学の矢上キャンパス(理工学部)です。
日吉といえば「慶應大学のある場所」として覚えている人も多いのですが、ここ理工学部の存在はやや影が薄いのです。
というのも、ここは昔塾生で王子製紙の社長になった藤原銀次郎氏が藤原工業大学の名前で創立した別の大学だったのです。
理工系のもてはやされる現代はそんなことないでしょうけれど、昔は「やがだい(矢上大学の略)」なんて慶應の他学部学生から揶揄されていたなんて話を、理工学部の卒業生からきいたことがあります。
私なんか、慶應に入れるだけですごいじゃんと思ってしまいますが。
 
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さて、元の線路際の道に戻りましょう。
線路に沿っているといっても、東横線は築堤のうえで防音壁の向こう側ですから、音と気配しか感じられません。
そのまま南下して台地のてっぺんに続く坂をのぼれば、日吉駅西口に自然に出ますが、ちょっと急なのです。
そこで、手前を右折して大きく右から迂回しながら坂を登りましょう。
前に黒川谷戸で演習した通り、坂道は同じ高低差なら距離が長い方が緩やかになります。
また、テレインマップで地形の詳細を観察すると、線路に沿った道はわりとストレートに大地を駆け上がっているのに対し、一本西側の道は少し南へ深く入った谷に、さらにもう一本西の道は、その谷間を斜行しながら登っています。
こういう場合、もちろん現地に行って確認する必要はありますが、自転車でのぼりやすい坂とそうでない坂は如実にあらわれます。
 
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迂回して元の道に戻り、日吉東急の脇を抜ければ、日吉駅前に到着です。
次回は日吉駅の周辺をご案内したいと思います。

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