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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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旧東海道へブロンプトンをつれて 38.岡崎宿から39.池鯉鮒宿へ(その2)

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愛知県安城市の宇頭茶屋交差(34.982791, 137.109541)点から、旧東海道を西へ向かいます。
700m先の右(北)側、街道から見てめいっぱい枝を広げているのが永安寺(34.987079, 137.103718)の雲竜の黒松です。
幹の周囲が3.7mもあるのに、高さは4.5mしかありません。
そして東西に17m、南北に24mも枝を広げています。
なぜか幹が上方へ伸びずに、地面と平行して枝が大きく広がる様子が、雲を得て天に昇ろうとする竜のようなのでこの名前がついたそうです。
普通こうした名木は、境内の奥深くに隠れていて街道からは見えません。
しかし雲竜の黒松は小さな山門の向こうにお寺の本堂を隠すほどにまで幅広に茂っています。
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江戸時代、この地は水利が悪くて田を設けることができず、畑作のみでした。
1677年、この地の貧しさから助郷役(年貢の代わりに街道筋に人足や牛馬を供出することで代替としての賦役とする制度)の免除を庄屋である柴田助太夫が請願しました。
請願は複数回にわたり、ときの領主は訴願をききいれる代わりに助太夫を見せしめに処刑したといいます。
彼の霊を村人が祀ったのが、この永安寺の由緒だそうです。
助太夫の死は、この時にとどまらず、のちの江戸後期に再びこの付近に助郷が賦課されようとしたときにも、免除の一つの理由に助太夫の犠牲の死が記録されているそうです。
義民というと、千葉県佐倉市の佐倉惣五郎を思い出しますが、一揆までゆかずともこのような農民の話は各地に残っているようです。
 
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(手前のブルーのラインが自転車道です)

永安寺から170mさきで明治川神社交差点(34.987296, 137.101685)を通過します。
交差点の左先(南西角)には明治川神社の鳥居が見えます。
この神社は、永安寺とは対照的に、明治川用水を開削した功労者たちをお祀りする神社です。
明治川用水って、小学校の社会科で習いましたよ。
たしか矢作川の排水をすすめたい上流の村人と、碧海台地に給水して新田開発を行いたい農民の利害を統合して、事業が行われたはずです。
自分が小学生の頃、日本はまだ農業が基幹産業でしたから、江戸後期から明治にかけてこの地を潤して「日本のデンマーク」とまでいわしめたほどの大事業を、教科書は誇らしげに掲載していました。
宅地化、工業化がすすんでいる現代の教科書にも載っているのでしょうか。
 
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あの時代は理科と社会科教育の一環で蚕の飼育もやりました。
社会科的には養蚕農家の苦労を知るという意味合いがあったようですが、あれは関東ローカルの教育単元だったのでしょうか。
いまや養蚕農家なんてどこにもありません。
こうして街道を走ってみると、江戸時代の貧しさ、苦しさなどから明治用水がひかれた経緯がよくわかります。
交差しているのは県道豊田安城線です。が、同じ名前の自転車道が並行しています。
この自転車道を左(南)方向に1㎞ゆくと、明治用水中井筋自転車道が右に分岐します。
用水自転車道を3.4㎞すすめば、JR東海道新幹線の三河安城駅にぶつかります。
こだま号で帰っても構わないという方は、きりのよい場所だと思います。
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(明治川神社から三河安城駅までの自転車道。大通りや鉄道は、アンダー、オーバーパスで越えます)
 
※たとえば、三河安城駅1807発の東京行きこだまに乗るとします。
新横浜到着は2時間21分後の2028になります。(運賃5,400+指定席特急券4,830円=10,020円)
(豊橋でひかりに乗り継ぐと1952には新横浜に到着します)
同じ三河安城を1809発の下り東海道線各駅停車に乗り、3つ先の刈谷駅で新快速に乗り換えたとして、1838名古屋到着です。
そこで首尾よく1842発ののぞみに乗り換えたとして、新横浜到着は2004で、三河安城からこだまで行くのと24分しか違いません。
ただし、切符の値段も名古屋経由の方は900円高くなるだけです。(運賃6,090+指定席特急券4,620円=10,920円)
途中駅で自分の乗っている新幹線が何度も後発の優等列車に抜かれるのは気分的に嫌という人は、名古屋からのぞみに乗った方が良いかもしれません。
わたしはこういう場合、前もって帰りの新幹線の窓側E席指定席券を、いちばん早い経路・列車で購入してしまいます。
そして早めに新幹線駅最寄りの街道筋に到着したなら、夕食を済ませてからあらかじめ決めておいた新幹線に乗車するようにしています。
街道筋を探索するといっても、夜は無理ですし、おのずとタイムリミットがあることがわかってきますから。
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明治川神社交差点から1.35㎞西へいった里町4丁目西信号(34.991323, 137.087808)を左に行けば、およそ500mで名鉄名古屋線の新安城駅に突き当たります。
ただし、名古屋や豊橋の宿へ戻る場合は、この先の知立まで行った方が、特急が停車するので便利です。
里町4丁目交差点から1㎞強で石田川を石田橋で渡り、さらに400m弱進むと、猿渡川橋(34.999274, 137.075545)を渡ります。
橋をわたれば知立市に入ります。
猿渡川は弘法大師にまつわる伝説からその名前がついたといわれています。
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京への帰路、川にさしかかった弘法大師は、1匹の母猿と3匹の兄弟の猿が川を渡る場面に出くわしました。
ところが兄弟の猿は兄猿と2匹の弟猿の仲がたいへん悪い様子です。
母猿は、まず兄猿を背負って対岸へ渡り、弟猿たちと引き離しておいてから、単身元の岸へ戻ります。
次に弟猿の1匹を背負い、対岸に渡っておろしてから、帰路は兄猿を背負って元の岸へ戻ります。
そして残った方の弟猿を背負って再び対岸へ渡り、もう一度単身戻ってから最後に兄猿を背負って渡河したのだそうです。
母猿は4往復で3匹の子猿を喧嘩させずに見事に渡しました。
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母猿が一度に1匹しか背負えなかったとして、3往復すれば3匹の子猿渡せましたが、喧嘩されるよりは1往復余分に渡河した方がましだと思ったのでしょうか。
この奥には猿投山という名の山がありますが、こちらは日本書紀に登場する第12代天皇が、伊勢の国へと旅した時、飼っていた猿が不吉な行動をしたために海へ投げ捨て(動物虐待ですね)、その猿が岸から上がって移り住んだからその名前がついたといわれています。
おそらくこちらの猿は、その時代の天皇と家来のいさかいの話なのではないでしょうか。(つづく)

今回、いくら修正しても写真と文章がずれるため、明後日に続きを投稿します。


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