猿投川橋のすぐ先で来迎寺公園東信号(34.999907, 137.074987)を通過すると、旧東海道は短くゆるい坂をのぼって御鍬神社の杜を右に見て、左へカーブします。
猿渡川橋から370mで来迎寺町交差点(35.001120, 137.072251)にさしかかります。
旧東海道に対して右へT字路になっていますが、交差点手前には石の道標が建っています。
ここを右折して670mほど進むと、道はふたまたに分かれるのですが、その間にあるのが臨済宗の無量寿寺(35.007492, 137.075712)です。
このあたりが、今の東海道に並行して古・東海道である鎌倉街道が通っていた場所なのです。
お寺の裏には八橋かきつばた園があります。
はい、伊勢物語のなかで在原業平さんが「かきつばた」を詠んだといわれる場所です(東下りの第九段)。
宇津ノ谷峠以来の在五中将のお出ましです。
「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」
解釈は高校の古典の授業で出てくるからいりませんよね。
「なれにし」で「着慣れた衣」と「慣れ親しんだ妻」をかけ、「つま」で「衣の褄=端」と「妻」をかけています。
「かきつばた」の暗号が接頭に入っていますが、末尾をさかさから読むと「ふるはし=古橋と藻」という、やはりこの地の様子を秘めています。
この段落、伊勢物語をちゃんと読むと「うぇー」となってしまうのです。
だって、お弁当の乾飯(かれいい/干し飯=非常食の一種で、水洗した白米を二、三日天日に干したもの。通常湯で戻して食べる)を食べながら、だれかが「かきつばた」をもとに歌を詠もうぜ」と発案し、上記の句を昔男さんが詠んだ後、みな同行の人がホームシックで悲しくなって涙するところまではよしとしましょう。
その涙で乾飯がふやけてしまったって続けてあって、「食べたんかい!それ」って話ですよ。
まぁ、軽く塩味もきいていたのではないかと…。
だって、旅に出て残してきた妻を想うような人なら、最初から旅など出ないでしょう。
「お家がいちばん」とか言ってそうではないですか。
とまぁ業平さんへのあてつけはこれくらいにして、芭蕉も句を詠んでいます。
かきつばた 我に発句の おもひあり
えっ?それで結局なんて詠んだのですか俳聖さま。
台所にて、中年オヤジがかれいいなる食事を作らんとして詠める歌
「かれい臭(におい) きょうもはなに つきまとい 場を濁さんと たまねぎをむく」
後ろから末尾をよむと、「くと(ど)いにおい」になってるっしょ。
悪乗りはこれくらいにして旧東海道の旅に戻ります。
悪乗りはこれくらいにして旧東海道の旅に戻ります。
あ、付け加えておきますが、一説によれば、八橋は京都のお菓子、八ッ橋の由来にもなっているそうです。
なんでも八ッ橋を有名にした西尾家本舗12代目当主の西尾為治社長と無量寿寺の当時の住職が親しく、境内には石碑が建っているのだとか。
来迎寺町交差点からまもなく、左手には来迎寺一里塚(35.001590,137.069733)が見えてきます。
この一里塚は再現ではなく往時の姿のまま残っているタイプです。
交差点から300m先の来迎寺小学校入口信号で右手をみます。
路地奥の小学校の右隣にあるのが来迎寺(35.002584, 137.070071)です。
この付近は、「古城」という住所が示す通り、今崎城というお城があって、16世紀の中頃、三河と尾張の境界一帯をせめぎあっていた今川氏と織田氏の間で争奪の対象になっていたようです。
その先、歩道が途切れて道がやや狭くなり、旧街道らしくゆるいカーブをくりかえして850mほど進むと、衣浦豊田道路の高架下にある新田北交差点(35.002352, 137.059927)を通過します。
その先の松並木を抜けると、目指す池鯉鮒宿はすぐそこです。
次回はこの新田北交差点から、池鯉鮒宿にかけてをご案内します。
旧東海道ルート図 (本宿駅入口~知立駅入口)