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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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TY11武蔵小杉駅からTY12元住吉駅へ

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(武蔵小杉駅南口)

武蔵小杉駅の正面口前を通過し、最近できた大きなショッピングモールを左に見て、東横線の下をくぐり南口付近の人通りの多い商店街をぬけてゆきます。
南口よりおよそ100mで府中街道を横断します。
府中街道を渡る際に左に目を向けると、東横線のガードがみえます。
あの南側に、かつて駅の遺構である階段がありました。
武蔵小杉駅は東横線開通時にできた駅ではないと新丸子駅のところで書きました。
その時点では、府中街道との交点に工業都市という名前の駅があったのです。
 
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(府中街道を渡る交差点)

その名前からわかる通り、田園都市に対する工業都市で、戦前この付近には大企業の工場が多数あって、そこで働く人のために設けられていました。
終戦の年にいまの武蔵小杉駅が(仮設のような形でしたが)開業すると、駅間の距離が200mと短すぎるため、8年後に統合される形で消滅しました。
しかし目黒線との複々線工事が始まるまで、長いこと駅の遺構が残っていたと記憶しています。
府中街道は川崎市を東西に貫く重要な道路で、江戸時代に東海道の川崎宿と甲州街道の府中宿を結ぶ道として整備されました。
地元では府中県道とも呼ばれています。
 
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(二ヶ領用水に架かる今市橋)

府中街道を渡ると法政通り南壱番街商店街に入ります。
文字通り、駅から法政二高への通学路となっており、朝夕の時間帯によっては車の通行は禁止されています。
(自転車は乗車して通過可能です)
ここには昔からの武蔵小杉が残っています。
昔からの名店が何軒か残っているのもここですが、駐輪場がないのでお店に入るときはたたんで入ることをお勧めします。
そうそう、法政二高といえば男子校だったのですが、今年(2016年)から男女共学になりました。
時計塔のある古めかしい校舎がトレードマークだったのですが、新校舎が落成しています。
これも少子化の波という時代の流れですね。
 
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(法政二高)

商店街の裏には、戦後まもなく創業したホテル精養軒があります。
こちらも今年(2016年)建て替えられたばかりですが、このホテルには大浴場があるのです。
また、アネックス館と呼ばれる別館があり、こちらはビジネスホテルと同じ値段で宿泊できます。
わたしが地方に住んでいて、東京横浜間についてブロンプトンを活用して散策するなら、このホテルはおすすめです。
理由は以下のような点からです。
 
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(ホテル精養軒)

・駅まで近い(徒歩でも5分以内)
・武蔵小杉駅は多くの路線が乗り入れ、四方への便が良く23区内ならほぼどこでも乗り換えなしでゆける
JR南武線、東急東横線、目黒線、JR横須賀線、湘南新宿ライン)
・横浜、鎌倉、湘南、小田原など、神奈川県の主な観光地へも乗り換えなしで行ける
JR横須賀線下りは早朝から動いているので、神奈川県内へは早くに行ける
・おとなりの武蔵中原までゆけば、南武線の一番電車に乗ることができ、多摩地区はもちろん、奥多摩、秩父、富士山、山梨方面まで日帰り旅行が可能
・大浴場がある
・チェックアウトが11時と遅め(最終日にも早朝散歩ができる)
・近隣に昔ながらの商店街や居酒屋があり、コンビニもファミレスも徒歩3分以内にある
 
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(二ヶ領用水を下流方向へ)

さて、商店街を150mほど進んでゆくと、前回ご紹介した二ヶ領用水を渡ります。
玉川の中流、宿河原堰から枝の用水路へ分水しながら幸区の平間配水所まで流れています。
もともとは農業用水でしたが、流域の宅地化・工業化に伴って、工業用水としても用いられるようになっているそうです。
今度はこの用水を下流方向へたどってみましょう。
東横線の線路をくぐり、綱島街道を横断したさきの右手、川崎市中原平和公園の一角にある川崎市平和館です。
街道をはさんで対面には、スポーツ医療で有名な関東労災病院があります。
 
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(川崎市平和館)

たまに病院へゆくとき、なぜお向かいが平和公園で、その類の展示施設があるのか分かりませんでした。
今回、この文章を書くために中に入って展示を読んで納得しました。
武蔵小杉周辺は工場がたくさんあったと冒頭に書きましたが、戦前から戦中にかけてはほとんどが軍需工場になっていました。
そして1945415日、川崎は大規模な空襲に見舞われます。
もっとも広範囲に攻撃されたのは、いまの川崎駅より東側の臨海部なのですが、武蔵小杉駅を頂点に南武線と東横線に挟まれた三角形の内側の工場地帯も、執拗な爆撃を受けて工場群が焦土と化しました。
そういえば、私の実家はここから4㎞ほど南西の当時農村地帯にあるのですが、亡くなった祖母が川崎大空襲の翌朝から夜まで、体中煤だらけのひとたちと、家財道具を積んだ荷車の列が、東から西へと絶えることなく続いたとはなしていました。
 
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(渋川の桜―法政二高付近)

平和の対語には戦争をイメージしますが、暴力を伴わない、たとえば仲間はずれ、無視といった陰湿ないじめや、私たちの心の中に巣食う差別意識もまた、戦争と同じ平和の対極にあるものだとの言葉が、印象的でした。
そして、平和というものは空気や太陽光のように、ただで当たり前に手に入るものではなく、過去の多大な犠牲のうえに、そして今を生きる個々人の永続的な努力のうえに、かろうじて保たれるものだという説明も、重かったです。
ある弁護士が「人権とは気持ちの悪いものだ」としみじみ語っていました。
そのひとは「ひととおなじはことはすばらしい、ひととちがうことはすばらしい」と子どもたちに語りかける一方で、人権なんて格好のよいものではないということを言いたかったのだと思います。
 
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いま、日本の国の内でも外でも、ひとの生活やライフスタイルはどんどん変わっています。
誰だって、自分と違う文化や習慣、性癖を持つ人々と一緒に暮らしてゆくのはしんどいことだと思います。
しかし、それを乗り越えられるのが人間だと思います。
そのとき、「いちばん強いのは、腕力や知力に優る者ではなく、変化に適応できる者だ」という言葉が頭に浮かびました。
日本人は幾多の災害や戦乱を乗り越えてきた民族なのですから、時間がかかって摩擦があっても、きっと時代の変化に対応してゆけるのではないでしょうか。
そう考えたら、排外思想を叫び、軍備を主張する人たちは、何が不安でそうしているのかが分かるような気がしました。
たとえいまが質の悪い平和の世の中であったとしても、それを大事にしたいものです。
 
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(渋川に架かる矢倉橋)

さて、元の道へ戻ります。
この道は旧綱島街道になります。
銭湯があるのを見かけると、むかしこの辺りは工場に勤める人のための独身寮がたくさん並んでいたことを思い出しました。
車窓から社名を大きく掲げた建物がいくつも見えたものです。
その時代からあったであろう銭湯も沿道には健在です。
東急東横線というと、田園調布に代表されるような高級住宅街というステレオタイプの沿線風景を思い描く人も多いと思うのですが、渋谷からここまででもかなりバラエティに富んでいます。
やがて二ヶ領用水から枝分かれした渋川を矢倉橋で渡り、住吉小学校を右に見ながら南へ進むと、元住吉はもうすぐです。
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