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旧東海道へブロンプトンをつれて 38.岡崎宿(その3)

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愛知県の東部にある岡崎は、三河文化の中心地です。
同じく愛知県の尾張地方が豪華絢爛なのに対し、三河はよく言えば質実剛健、悪く言えば地味であるとはよく聞きます。
岡崎宿は新幹線も停車しないし、在来線や名鉄本線の駅も旧市街の中心部から離れていることは、以前書いた通りです。
しかしそんな岡崎宿について、ただ二十七曲を忠実に辿ることだけを目的に通過してしまっては、もったいないと思うのです。
なにせ五街道を制定した徳川家康の誕生地です。
歴史ではあまり問題にされませんけれども、その人が生まれ育った場所や環境というものは人格形成にかなり大きな影響を与えると思います。
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(名鉄本線東岡崎駅)

わたしも幼少期に鎌倉の海を見て育ったから、「外国へ行ってみたい」という欲求が強くなったと思うのです。
だからお子さんに将来世界へ羽ばたいてもらいたいと思う親御さんがいるのなら、英語教室に通うのもよいですが、海や港のある環境に置いてあげることのほうが大事だと思います。
経験から言うと、言葉などもっと後からどうにでもなります。
わたしは高校の時に英会話は苦手でしたけれど、いざ海外へ出たときには「目的を達成するためにはいかにコミュニケーションをとるか」自分で工夫しましたから。
まぁ、盆地に育ったとしても「あの山向こうには何があるのだろう」と思っていたには違いないでしょうけれど。
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(乙川にかかる殿橋から岡崎公園方面をのぞむ)

ということで、まずは岡崎城(34.956328, 137.158791)へ行ってみましょう。
旧東海道からだと、籠田町公園の南側、康生通りをまっすぐ西へ向かった先に大手門があります。
城のある小高い丘には龍が住んでいたという伝説から「龍城」の別名があるそうです。
岡崎公園内北側には「三河武士のやかた家康館」があり、こちらは家康の生涯に関して展示してあります。
いまの天守は明治維新で破却されたあと、昭和34年に復元されたものですが、こちらは城そのものについての展示が中心ですから、もし時間があるのであれば共通券を購入して両方ご覧になった方が良いと思います。
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(左;岡崎城大手門)

家康は15431226日、ここ岡崎城で生まれ、6歳で他家へ人質に出されるまでを過ごしました。
当時の松平氏は西の織田氏、東の今川氏という二大勢力に挟まれた弱い立場の豪族に過ぎませんでした。
家中も争いが絶えず、家康の祖父は暗殺され、父も命を狙うという事態に、このどちらかの2大勢力の庇護のもとに生き延びるしか手はなかったといいます。
彼は城を出てから織田家~今川家と人質生活が続き、このお城に戻ってきたのは今川義元が桶狭間の戦いで敗死する1560年でした。
ときに家康19歳。
この多感な時期によそ者として居候生活を送ったことが、のちの彼の人生に最後まで影を落としていたと司馬先生は「覇王の家」のなかで書いていました。
そういえば、源頼朝も似たような境遇を過ごしています。
家康の愛読書が源氏の正統史である「吾妻鏡」だったのも、おそらく頼朝の一生を自分の人生に重ねていたのでしょう。
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 お城の前には、家康の幼名である竹千代と家康の石造ベンチが並んで設けられています。
そして天守正面には有名な遺訓の石碑が亀にのっています。
「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし、
いそぐべからず、
不自由を常と思えば不足なしこころに望みおこらば困窮したる時を思いだすべし、
堪忍は無事長久の基(もとい)、
いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、
おのれを責て人をせむるな、
及ばざるは過ぎたるよりまされり」
うーん、道歌めいているものの、「いかりは敵と思え」というところに、家康が自分と闘っていた姿を垣間見ます。
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そしてすぐ後ろには遺言の石碑もあります。
最後の部分を読んでみましょう。
「天下は一人の天下に非ず
天下は天下の天下なり
たとえ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らば
もとより家康が本意にていささかもうらみに思うことなし」
家康というと、晩年に徳川幕府が末永く続くように政治機構に様々な策を凝らしたイメージがあったのですが、ともかく遺言にはこう書いているのですね。
明治維新のころの志士たちはこの「権現さまの遺言」をどう読んだのでしょう。
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さて岡崎城をあとにして、旧東海道と愛知循環鉄道の交点すぐ近くにある中岡崎駅から2つ先の大門駅まで電車に乗ってみましょう。
いえね、このくらいの距離であればブロンプトンで走ってもよいのですが、愛知環状鉄道線(愛環線)に乗車してみるのもひとつの機会だと思うのです。
関東の鉄道みたいにバリアフリーではないとか、中途半端な時間でも区間によっては意外に乗車率が高いとか、駅や車内広告はどんな状況かとか、いろいろなことがわかります。
この鉄道は2005年の愛知万博開催の際に利用して以来です。
大門駅で降りて駅前で自転車を展開していると、駅員さんから「それ、便利そうですねぇ」と声がかかりました。
そこから住宅街を抜けてたどり着いたのは、本田平八郎忠勝誕生地の碑(34.996092, 137.168957)です。
そう、見附宿~浜松宿間の一言坂の戦いで登場した、蜻蛉切りの武将です。
http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/39015428.html
ここは西蔵前城という城郭があった場所なのです。
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(本多忠勝誕生地;わかりにくい場所にあります)

徳川四天王のひとり、本多忠勝は1548317日にこの地で生を受けました。
彼の名は「ただ勝つのみ」という願いが込められているのだそうです。
(あれ?先ほどの家康遺訓と矛盾している)
「三河武士の律儀」という言葉が残っていますが、本多忠勝は別格で、藤川宿の手前にある山中八幡宮のところでも出てきた三河一向一揆との戦い(http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/40030880.html)においても、他の本多一族が家康に敵対する中でただ一人、宗旨替えまでして家康に味方しました。
現在放映されている大河ドラマでも、家康に叛旗を翻して敗れた真田父子の助命嘆願を行っているのでしょうけれど、彼は家康の忠実な家臣としてだけではなく、人としての筋を通したからいまでも人気があるのだと思います。
関ヶ原の戦いであげた武功によって、桑名藩を与えられますが、世の中はだんだんといくさが少なくなり、文官が幅を利かせる時代になるとひっそりと家督を息子に譲り、最後は桑名の地で没しています。
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(大樹寺山門)

さてそこからブロンプトンで岡崎市街の方へ戻ります。
その途中で浄土宗のお寺、大樹寺(34.984400, 137.165312)に寄ってみます。
ここは松平氏の時代からの徳川家の菩提寺で、歴代将軍の等身大位牌がおさめられていることで有名です。
また、ここから岡崎城を見渡せるように、三代将軍家光は本堂-山門-総門を一直線に配置しなおして、いわゆるビスタラインを完成させました。
ここから3㎞南の岡崎城天守まで、間に遮るものはないとのことですが、私には遠すぎてみえませんでした。
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(大樹寺本堂)

このお寺は家康が岡崎城へ再帰するきっかけになった、桶狭間の戦いの際の逸話が残っています。
当時今川方の武将であった家康は、戦いに敗れ、落ち武者狩りに追われてこの寺に逃げ込みました。
寺は包囲され進退窮まった彼は、歴代先祖の位牌の前での自害を決意します。
(彼は人生でいったい何度自害しようとしているのでしょうか。
少なくともこの時のほかに、信長の訃報に接したとき、三方ヶ原の戦い、大坂夏の陣で真田信繁の突撃をうけたときと、4度はくだりません)
そこで住職の登誉天室上人から、「厭離穢土・欣求浄土」(「おんりえど・ごんぐじょうど」と読みます)の教えの尊さを諭され、これに感化された家康は寺僧500人と協力して野武士を追い払うことに成功しました。
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(本堂より山門、総門方面をのぞむ)

時代劇などでおなじみの家康の旗印には、こんなエピソードがあったのですね。
「厭離穢土・欣求浄土」とは平安時代の天台宗僧、源信の「往生要集」の題目として出てくる言葉です。
意味をひらたくいえば、「けがれた現世を厭い、弥陀の清らかな極楽への往生を希求する」という意味です。
この旗印を生涯使ったということは、家康も心のどこかでこの現世にあれこれ理屈をつけるのはやめて、ただ仏の慈悲を求めて歩み続けようと決心したということでしょうか。
そのあと、さらに南にある伊賀八幡宮(34.971499, 137.164695)に立ち寄ります。
こちらは松平(徳川)氏の氏神さまです。
大樹寺同様に家光の庇護を受け、東照大権現をお祀りしています。
この神社は境内正面に大きな蓮池があり、6月下旬から1か月半ほど、ピンク色の見事な花を咲かせるのだそうです。
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八幡宮へお参りした後は、伊賀川に沿って南下すればおよそ1.2㎞で柿田橋に出て旧東海道と合流することができます。
次回は、岡崎宿の西端である矢作橋から池鯉鮒宿(「ちりゅう」と読みます)を目指します。
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