和菓子の買い食いツアー実験の続きです。
銀座8丁目から新橋駅汐留口前を通り過ぎ、ガードをくぐる手前で右折、新橋三丁目にある文銭堂本舗(35.666429, 139.755312)さんへゆきます。
ここで食べたのは文銭最中(150円)と豆大福(170円)。
デザインは江戸時代に親しまれた寛永通宝という貨幣を模したものだそうです。
たった2つしか買わないのに、お茶をだしていただきました。
ここも甘さ控えめでおいしかったのです。
しかし、さすがに最中はつらくなってきました。
そこから南へ走ると、タミヤ模型の直営店を発見。
暑かったし、ちょっと胃がもたれ気味だったので立ち寄ってみます。
自分らの世代は小学生の時はよくプラモデルで遊びました。
戦車とか軍艦とか、あれでドイツ語や漢字や地理を覚えた気がします。
たとえば、パンツァー(独 Panzer)=タンク(英 Tank)とか、重巡洋艦高雄や愛宕の名前は京都の山に由来しているとかです。
マブチモーターとか夏休みの宿題で使ったかも。
えっ、今は女子高生がアニメの中で戦車を乗り回し、あるいは艦娘とかいって軍艦を擬人化してしまうのですか。
うーんついてゆけません。
さて、お次はマッカーサー道路に面した新正堂(35.664241,139.754915)さんへゆきます。
お店に近づいたとたん、「切腹最中」の幟が目につきました。
ええっ?切腹なんて縁起でもないと思いきや、ここは浅野内匠頭(あさのたくみのかみ=吉良上野介に切りかかった方ですね)が切腹をしたお屋敷にある和菓子屋さんだからなのだそうです。
はぁ、それで赤穂浪士のだんだら模様なのですね。
子どものころはよくテレビの真似をしたなぁ。
「殿中でござる」ってとめる役と、「放せぇー」という内匠頭役はいいとして、「ひぇー」といって斬られる意地悪爺さんみたいな上野介はだれもやりたがらなかったのです。
世田谷を領有したのも吉良氏でその史跡があちこちに残っているのですが、時代が違うとはいえ赤穂浪士事件のヒール役で吉良氏の名前は印象が悪くなってしまっているとおもいます。
新正堂では切腹最中(200円)と塩大福(230円)をいただきました。
ちゃんと店先に長椅子があって、2個しか購入していないのにお茶を2つ出していただきました。
切腹最中は真ん中が割れていて案が飛び出しそうになっています。
今日はすでに饅頭1個、どら焼き1個、最中4個を2人で分け合って食べているのですが、かなりつらくなってまいりました。
でも、不思議と甘いものはおなかにはいってゆきます。
塩大福はよくのびる大福餅でした。
塩気があって救われます。
この日は暑かったし、塩分を必要としていましたから。
そこからさらに南下して、愛宕警察方面へと走ります。
予定では東海菓子店(35.662509, 139.755008)さんに立ち寄る予定でしたが、あいにくお休みです。
ここは栗きんとん最中が有名なのだそうです。
そのまま通過して芝大門へゆきました。
そして芝榮太樓(35.657908, 139.754416)さんに到着です。
このお店は創業時(明治18年)に日本橋の榮太樓本舗さんからのれんわけした支店で、本家の榮太樓本舗の商品と、オリジナルの商品とを扱っています。
ということは、このお店でも131年目になるわけです。
入って最初に目がいったのは、むかしあちこちの家にあった榮太樓飴です。
これ、カルピスの原液とならんでお中元やお歳暮の定番だったのでしょう。
丸く平たい円柱状の缶に入っていて、赤=梅ぼ志、黄=黒飴、緑=抹茶、紫=紅茶と並んでいます。
梅ぼ志飴はその形状から名がついただけで、梅干し味でもなければ酸っぱくもないのだとお店の人に説明していただいているさなかに、そうだったと思い出してきました。
これと浅田飴、味覚糖の純露は自分の世代だったらみな知っていると思います。
そしてややおいてピーセンを発見。
うわぁ、懐かしすぎます。
たしかブルーとグレーのツートンのエッフェル塔の絵が入った背高缶の商品でしたよ。
こちらはもともとの製造元(銀座江戸一さん)が商売をやめるときに、榮太樓さんの方で商標と製造権を買って、のちに復活させたようです。
「パリパリ~パリのピーセン」ってハイカラなイメージで売っていたのですが、触感はパリパリではなくサクサクなほうです。
けっきょく、尾崎紅葉(お宮貫一でおなじみの金色夜叉の作者ですね)が名付けたという江の嶋最中(100円)と、懐かしさのあまりピーセンの小袋(60円)を購入してみました。
最中の方は一口サイズで貝殻のデザインです。
こどものころ、江の島に向かう道すがら、両側の店にたくさんの貝細工を売るお店が並んでいた情景を思い出しました。
あの頃は、あんなものしかなかったとはいうけれど、今の土産物よりずっと印象深いものでした。
大人になって、幼い娘と一緒に砂浜で美しい貝を拾い集めたのも、いまでは良き思い出です。
ちょっと頭の中で「浜辺の歌」を口ずさんでみたら、歌詞の最後の方でホロリときました。
では、久々に駄作を一句。
いまいずこ 菓子口ずさみ 君おもう
味はむかしのままです。
それにもまして、甘いものばかりたべてきた身にはありがたい。
ピーセンってピーナッツせんべいの略でしたね。
昭和30年代から40年代にかけて東京土産の定番だったそうです。
このころ、餅を揚げて自家製おかきをつくり、あるいはおはぎをつくってお重にいれて持って訪問するなどということは普通に行われていたので、ピーセンのような商品はちょっと高級な感じがしました。
子どもでも、わりと改まった席で出てくる御菓子でしたよ。
なお、芝榮太樓さんの店先にある看板文字は、岡本太郎さんの筆なのだそうです。
言われてみれば、確かに太郎です。
そして、ビルは第一京浜に面しているにもかかわらず、なぜお店が裏路地に向かってのみあいているのかといえば、創業者が「芝大神宮と同じ向きでは畏れ多い」とわざと逆にしたのだとか。
昔の人は、「畏れ」という感覚を大切にしていたようです。
芝大神宮は、平安時代中期に伊勢神宮から分祀されたのがはじまりで、源頼朝、太田道灌らの庇護を受け、江戸時代は「武蔵の国のお伊勢さん」と呼ばれてしたしまれていたのだそうです。
江戸を出立するにあたって道中の安全を祈願する人や、無事に江戸に帰着したり、到着したりしたことを報告、お礼参りする人も多くいたそうです。
また本物のお伊勢参りはできないので、ここでの参詣をもってするという人々も多かったのだとか。
ということは、芝榮太樓さんの界隈は、江戸版おかげ横丁といったところでしょうか。
なお、芝大神宮は祭礼に際して天皇より勅使が遣わされる準勅裁社のうちのひとつでした。
現在は23区内の神社で東京十社とよばれるもののひとつです。
東京10社とは、王子神社、白山神社、根津神社、神田神社、亀戸天神社、富岡八幡宮、赤坂氷川神社、日枝神社、芝大神宮、品川神社を指します。
このうちいくつの神社に参詣したことがありますか?
これを一日で回るとなると、ブロンプトン+鉄道が便利でしょう。
今回はながくなってしまったので、ここまでにしたいと思います。