(左;京浜伏見稲荷前 右;新丸子付近の綱島街道)
(大楽院山門)
(新丸子の街並みとのコントラストが鮮やかです)
新丸子駅と武蔵小杉駅の間は、ものすごく近いのです。
駅間が500mしかありません。
もちろん、昔も今も両駅はどちらからもよく見えました。
これは、東横線の開業当初はいまのJR南武線も開通しておらず、したがって武蔵小杉駅は存在しなかったからなのです。
前回に書いた通り、新丸子駅の開設は東横線の開通と同時の1926年2月14日のことでした。
翌1927年3月9日、南武線の前身である私鉄の南部鉄道線が川崎と登戸の間で開通します。
南部鉄道線は多摩川の砂利運搬を目的として開業した鉄道で、発起人は平間の名主、秋元喜四郎でした。
彼は前々回にでてきたアミガサ事件の中心人物です。
南部鉄道線の開通から8か月後、東横線との交点に停留所が設けられますが、東横線の側に駅ができたのはそれから17年以上もあとの1945年6月16日のことでした。
さて、たかだか500mの距離ですから、新丸子から武蔵小杉の間だけ電車に乗るという人は、健康な人であればまずいないとおもいます。
東横線の高架下、横浜方面に向かって右手の側道を走ってゆくと、すぐに武蔵小杉駅北口の広場前に出てしまいます。
そこで、武蔵小杉駅へ向かう前に、前回とは逆の新丸子駅東口の方をお散歩してみましょう。
東口を背に東栄会商店街を進み、160mほどさきで綱島街道を渡ります。
渡った先は八幡町共進会という商店街に変わります。
さらに400mほどまっすぐ進んだ突き当りにあるのが大楽院(35.580456, 139.667879)です。
(大楽院の境内にある弘法大師像と無縁仏供養塔)奈良の長谷寺の末寺にあたる、真言宗豊山派のお寺で。それを裏付けるように弘法大師の像がたっています。
創建年代は不明ながら、お隣の山王神社別当を務めていたということで、神社ともどもかなり歴史はあるようです。
境内の新幹線線路沿いには、もともと中原街道沿いにあった北向き観音が移設されています。
また本堂向かって右手には八百八橋の一部が残されています。
これは江戸中期に上丸子村の野村文左衛門が、川の多かったこの地に生涯808の橋を架けることを自分に課して、仲間とともに橋を架け続けた名残です。
山門を背に道を右手に210mほど北へ行くと、墓地の中に閻魔堂もあります。
(本堂右側にある八百八橋の一部)さて、今度はお寺を出て左へゆき、新幹線と横須賀線の下をくぐりましょう。
線路を挟んで80m南にあるのが、丸子山王日枝神社(35.578957, 139.667846)です。
ケヤキやシラカシ、クスノキといった大きな樹木に抱かれて、大楽院ともどもこの鎮守の森が丸子の庄の中心だったことがわかります。
こちらの創建は古くて、西暦809年に桓武天皇の孫がいまの大津市にある日吉大社の御分霊を奉じたのがはじまりだそうです。
その後1178年に平重盛によって社殿が再建され、江戸時代には徳川家光から朱印状を賜っています。
(丸子山王日枝神社)平重盛は清盛の長男で、平治の乱の際に源義平と激しく戦った武将です。
フィクションともいわれていますが、御所の内裏にあった「左近の桜、右近の橘」の周囲を義平に馬で7~8周も追い回された話は有名です。
実際の重盛は情に厚く、温厚で誠実な人柄だったようで、父清盛のやりすぎを諫めたり、あるいは弱気を励ましたりしています。
最後は子どもの結婚相手の父、つまり息子の岳父が平氏打倒の首謀者であったとして殺されるなどし、平氏一門の棟梁が平宗盛に転じてゆく中で、失意のうちに病没してしまいます。
この丸子山王神社を再建したころは、重盛の人生が転がり落ちてゆくころで、当時の後白河上皇が延暦寺ともめていたことから、その延暦寺の地主神である日吉大社の分霊を再建するということは、少し政治的なにおいを感じます。
(京浜伏見稲荷)さて、新丸子の駅へ戻って武蔵小杉へ向かいましょう。
東口駅前の十字路を右手に走ります。
150mさきの右側にあるのが京浜伏見稲荷神社(35.578917,139.662110)です。
先ほどの丸子山王日枝神社とはうってかわって派手なお社です。
なんせ、商売の神様ですから。
ご由緒を読むと戦後まもなく京都の伏見稲荷から分祀された神社です。
みると朱色の鳥居が並んでいて、プチ伏見稲荷大社気分を味わえます。
また、駐車場から続く小径には、富士山や白山のミニチュアがあります。
これは浅間信仰と白山信仰です。
多摩川浅間神社のところでも説明しましたが、もともとこうして山そのものを「荒ぶる神」とか、「生命の源」としてご神体にして祀る信仰は古くからありました。
富士山、白山のほかに箱根権現も有名です。
白山は岐阜石川県境にそびえる山ですが、関東地方で白山信仰を見かけるのは珍しいと思います。
(白山と富士山のミニチュア。登らなくても遥拝できます)新丸子東口の周辺は、戦前は多摩川に遊びに来る行楽客のために料亭があって芸妓さんたちもいる、いわゆる花街でした。
そう聞くと、いかがわしい夜の街を想像する方もいらっしゃるかもしれませんが、いわゆる三業地(料理屋・待合茶屋・芸者屋の三業を指します)というものは、もっと粋な雰囲気だったようです。
大浴場を備えた企業の保養施設があって、一般にも開放され、その企業が夏のイベントとして多摩川花火大会を始めたという話も残っています。
京浜伏見稲荷神社の派手さは、かつてここが栄えたころの名残なのだと思います。
街自体も、田園調布や多摩川と違って、昭和の雑然さを色濃く残していて、どこか懐かしい感じのする街です。
(東丸子地下通路 両脇にエレベーターがついていて、階段には自転車用のスロープもついています)京浜伏見稲荷神社の前を、南方向へ走ってゆきます。
車の一方通行を逆走する形になりますので、交差点では注意して徐行しましょう。
車の運転手さんたちの中には、一方通行を逆走してくる自転車を全く想定せず、交差点進入時に片側しか確認しない人もいますから。
わたしは自分が自転車に乗るようになって、車に乗るときにはよく注意するようになりました。
神社から100mほどで比較的交通量の多い道路を横断します。
これは南武沿線道路と呼ばれる道で、文字通りJR南武線に沿っている道路です。
横断して正面は行き止まりになっているため、一つ目の路地を右へまがるとすぐ左側に地下道の入口が見えてきます。
(再開発前の通路(武蔵小杉側) 中は1.4mしか高さがなく、屈んで通っていた人には懐かしいと思います)ここは新丸子東地下通路と呼ばれる歩行者専用の南武線横断通路です。
通路内は自転車走行禁止ですから、押し歩きで抜けましょう。
2016年夏現在、東を並行して走る綱島街道は工事中ですが、もともと南武線を越える橋は人ひとりがやっと通れるくらいの歩道が片側にしかついていませんでした。
正面から自転車が来ると、すれ違いもできないくらいです。
かといって車道もまた上下2車線の非常に幅の狭い橋で、渋滞時など自転車でも脇をすり抜けることができないほどでした。
ボトルネックになるし、危険なので橋を拡幅しようにも、お隣には新幹線の橋がやはり南武線をまたいでいて、簡単には道路を広げることができませんでした。
それがいま、ようやく綱島街道の4車線化に伴ってボトルネック解消のために工事しているというわけです。
西側は武蔵小杉駅の北口ロータリーがあって、かなり迂回しないと南武線を越えることができません。
そこで、この場所に人道地下通路が設けられたのですが、このような施設ができる前は、地元の人だけに知られている秘密の通路でした。
小川のガード下脇に、人が通れる通路が便宜的に設けられているだけだったのです。
それがこうして両側エレベーター付きの立派な通路に生まれ変わったのは、武蔵小杉駅の正面口付近が再開発されたからでした。
地下通路を抜けると、高層マンションの立ち並ぶ未来都市にぱっと出ます。
先ほど新丸子の街並みを見てきたので、まるでこの地下道でタイムスリップしたかのような感覚を味わえます。
これもまた、車やオートバイでは味わえない、ブロンプトンによるお散歩のだいご味なのでしょう。
わたしはここに企業グランドと工場しかない状態を長く見ていましたので、いまの武蔵小杉駅周辺はどこか新しい人たちの別の街に感じてしまいます。
次回は武蔵小杉駅周辺をご案内します。