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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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TY10新丸子駅

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新丸子というからには、新しくできた駅を想像してしまいますが、東急東横線の前身である東京横浜電鉄が、19262月に丸子多摩川駅(現在の多摩川駅)~神奈川駅間で開業した時から、ちゃんとある駅です。
この原稿を書こうと思って、ふと「しんまるこ」のローマ字表記はどうなっているのかが気になりました。
ヘボン式なら“Shimmaruko”になるはずです。
車窓から確認したら、“Shin-Maruko”でした。
えっ、同じ東横線の反町(「そりまち」じゃないですよ、「たんまち」です)は?と思ってこれまた確認してみると、こちらは“Tammachi”なのでした。
これ、外国人は田町との区別がつくのでしょうか?
あーさらには群馬県にある新町駅が気になる・・・。
ローマ字表記もややこしいものです。
 
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丸子という地名はこの付近に丸子荘(まりこのしょう)という名の荘園があったからというのはほぼ間違いないです。
しかし、丸子荘の丸子の語源は何かというと諸説あるようです。
丸子部(まりこべ)という職能集団あるいはそういう氏の豪族がいたという説。
多摩川が湾曲している地形からついたという説。
渡し守を指す「守子」が転訛したという説などがあります。
丸子ときいて旧東海道トラベラーとして真っ先に思い浮かぶのは丸子宿ですが、あちらももとは「まりこ」でした。
また、長野県上田市の南部に丸子町がありましたし、島根県の江津にもあるそうです。
 
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なお、川向こうの東京都側にも東急多摩川線に下丸子という駅があります。
電話などで新丸子を下丸子と聞き違える話を聞いたことがあります。
丸子のほかにこの付近には多摩川を挟んで同じ地名というのは結構あって、沼部、等々力(「とどろき」と読みます。子どものころは読めなかったぁ)、野毛、北見方(都側では喜多見)瀬田、宇奈根などがあります。
これは、多摩川が暴れ川だった証拠で、流路が氾濫のたびに変わるので両岸に同じ地名が残ってしまっているのでしょう。
 
さて、新丸子では小杉御殿跡に行ってみましょう。
場所は丸子橋を渡って中原街道を西へ向かった先です。
東京都側から来たのなら、新丸子の駅よりも手前にありますので先に立ち寄った方がよいでしょう。
小杉御殿は1597年、関東へ移ってきた徳川家康にこの地の代官が新田開発を進言し、ここに陣屋を置いたのがはじまりです。
1608年に徳川家康が中原街道を往復する際の宿泊所として御殿が建てられました。
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家康はこの地に見分に訪れたほか、中原御殿への鷹狩や府中(駿府)との往来の折にも、ここに立ち寄って宿泊したり休息したりしたそうです。
家康という人は健康オタクだったと司馬先生も小説の中で書いています。
とにかく薬を調合するのが好きで、ドラマなどでも薬研で原料を粉砕しながら家臣と話しているシーンなどが出てきます。
食事も相当気を遣っていたようですし、健康に良いと聞けばなんでも試していたみたいです。
 
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食生活とともに大事にしていたのが運動の習慣です。
運動不足とならないように、しょっちゅう鷹狩という名のスポーツをたしなんでいたそうです。
鷹狩と言えば、軍事訓練の意味合いが強いのですが、彼の次の言葉がよく本質を表しています。
「およそ鷹狩りは遊娯の為のみにあらず、遠く郊外に出て、下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし、筋骨労働し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、おのずから病などおこることなし」
そういえば織田信長も鷹狩に加えて早駆けマニアだったようですね。
とにかく馬を走らせて遠乗りするのが大好きで、今の人でいったらツーリングオタクとでもいいましょうか。
あんなにお散歩(というには激しすぎて、どちらかといえば旅)ばかりしていて、よく天下取りができたものだと思います。
一日中オフィスでPCに向き合ってダイエットサプリを口にしている方がいたら、休みの日はブロンプトン散歩をお勧めします。
 
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家康に戻しますと、江戸時代初期はまだ東海道が整備されたばかりで、それより以前から街道として利用されていた中原街道のほうを主に利用していたようです。
実際に日本橋から平塚までの距離は、東海道より中原街道の方が短いので、ショートカットにもなります。
また、中原街道はこの付近、すなわち川崎市中原区を貫いているからその名がついていると私も昔は勘違いしていたのですが、家康が鷹狩に利用した、平塚にある中原御殿への往復の道だからその名がついたそうです。
 
橋を渡って坂道を下った場所にある丸子橋交差点から中原街道を西へ向かいます。
東横線の線路をくぐって500mほどゆくと、右側にお屋敷門があります。
これは街道沿いに建っていた明治の銀行家、原文次郎の屋敷跡です。
母屋そのものは向ヶ丘にある日本民家園に移築されていますが、この地域における往時の経済的な豊かさが想像されます。
そこからさらに330m進むと、中原街道がとつぜんかぎ型にクランクしています。
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この正面に見えるお寺が西明寺といって、小杉御殿があった場所です。
西明寺は京都七条にある智積院(東京方面から来た東海道新幹線が京都駅手前でトンネルを出て、すぐ右側の山の上にあるお寺です)の末寺で、開基は弘法大師とも、北条時頼とも伝えられています。
弘法大師といえば、真言宗なわけで智山派に属します。
それにしても弘法大師と北条時頼ではかなり時代が違います。
このお寺の縁起を読みますと、奈良時代にはここから3㎞ほど西南に位置する影向寺(「よごうじ」と読みます)の末寺だったとあります。
影向寺も中原街道沿いにあるお寺ですが、あちらは創建不明ながらおそろしく古いお寺で、記録をたどれば7世紀末までさかのぼれるお寺です。
ということは、北条時頼は中興の祖で西明寺の創建はもっと古いということになるのでしょう。
 
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そのあと江戸時代になって前述のようにこの地に小杉御殿ができたことから、徳川氏から庇護されました。
なお、この地は多摩川を背負った江戸防衛の拠点ともされていて、それで前の中原街道がかぎ型にクランクしているのだそうです。
四代将軍綱吉の時代には、多摩川を挟んで二十五の末寺を擁するほどの大寺になっていたそうです。
その後、明治になって本堂を利用して小杉学舎が設立されました。
これがのちの川崎市立中原小学校です。
 
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帰りにはちょっと多摩川の堤防まで戻ってみましょう。
丸子橋の南詰(神奈川県側)から上流方向に少し行った場所の堤防斜面に、えらく古いコンクリート製のスタンドのような遺構があります。
これは、多摩川スピードウェイの跡です。
多摩川スピードウェイとは、戦前の1936年に開業した日本ではじめての常設サーキットのこと。
20m、一周1,200mの長円形をしたダートトラックで、最大収容人数は30,000人だったといいますが、本当にそんなに収容できたのかなと疑いたくなります。
こけら落としは第1回全国自動車競走大会でした。
(名前が企業運動会みたいですし、もちろんレースクィーンなんぞおりませぬ)
 
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このレースに当時31歳だったの本田宗一郎は弟の弁二郎と参加しました。
彼が丁稚していた都内のアート商会(自動車修理業)からのれん分けして浜松に店を出したころです。
丁稚奉公の頃からレーシングマシンを制作していた彼は、このとき自作の「浜松号」を駆って出場したものの、事故によりリタイヤしています。
ゴール直前、時速120㎞で走行中に他車と接触した浜松号は宙を三回転し、ドライバーの彼は同乗の弟さんともども車外へ投げ出されました。
彼は顔の左半分をつぶし、左腕の脱臼と左手首を骨折しました。
弟さんはろっ骨を四本も折る重傷を負ってしまったそうです。
路面がダートだったのが幸いしたのか、よく生きていたものだと思います。
写真を見ると、浜松号はまるでアニメ「チキチキマシン」に出てくるような車です。
 
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この大会、国産自動車部門の優勝はオオタ自動車が製作したレース専用マシンのオオタ号。
こちらもレトロなミニカーにこんな感じのマシンがあったなというデザインです。
オオタ自動車工業は戦前において三井物産傘下の有名自動車メーカーだったようですが、戦後の財閥解体と、時代を先取りしすぎた電気自動車開発で朝鮮戦争特需に乗り切らなかったこともあって、紆余曲折ののちに1960年代初頭に消えています。
また、このレースを観戦していた日産自動車の鮎川義介社長が、自社製マシンの敗戦に激怒し、次回のレースでの必勝を命じたことからダットサン・レーサーが開発されたというのは、有名な話だそうです。
 
全国自動車競走大会は毎年開催されたものの、第4回以降は日中戦争の激化によってガソリンが配給制になったのに伴い、行われなくなりました。
多摩川スピードウェイも、戦後は自動車レースどころではなく、結局廃止されてしまいました。
なお、日本に再び常設のサーキットが開設されるのは、1962年にホンダが鈴鹿サーキットをオープンするのを待たねばなりませんでした。
その後自身のレース出場について、本田宗一郎は周囲に「女房が泣いて止めるので、レースはやめた」と語っていたそうですが、夫人の方は「私が言ってやめるわけがない。父親に説教されてやめたのだ」と言っていたようです。
あの本田宗一郎も、お父さんには頭があがらなかったみたいです。
 
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スタンドに腰かけながら、彼の著書「夢を力に」を読んでみました。
(例の“Power of Dreams”です)
私はこうした立志伝中の人の伝記を読むのはあまり好きではありませんでした。
本の中で昔から綴りが苦手だったと告白している彼が、こんなに上手に文章をまとめるわけがありません。
どうせ新聞連載の影にライターがいたのだろうなんて思ってしまうのです。
けれど、たとえ編集者の手直しが入っていようと、口述筆記されたものだろうと、やはり彼自身の言葉がもととなっているわけです。
たとえば、鍛冶屋の「トンテントンテン」、発動機の「ドンスカドンスカ」といった音の表現、大人の自転車を斜め乗りして遠くまで飛行機を見に行った話など、彼の感性がよくあらわれています。
そして、彼のエンジニア&経営者としての原点は幼いころの周囲や環境とのかかわりにあるのだということが、じゅうぶん伝わってきました。
さらに、若いころのハチャメチャなエピソードを読んで、スタンドでひとり大笑いをしてしまいました。
(下を走るサイクリストからは、頭のおかしな奴だと思われたに違いありません)
彼は「ひとつ間違えたら刑務所に入っていたかもしれない」と書いていますが、現代なら間違いなくメディア・スクラムの餌食になった挙句に刑務所行きです。
(だって飲酒運転ばかりして、事故もおこしていますから)
本を読みながら、「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを怖れろ」と言った彼から、こんな風に声を掛けられている気がしました。
 
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事業がなかなかうまくゆかなくても、暗くなっていたらダメだ。
何をしていても、何もしていなくても、とにかく前を向いて目線をあげていなさい。
時間がかかることもある。
失敗もたくさんするし、恥もかくだろう。
けれど、何度失敗しても、「ガッハッハ、しくじってしまったわい、それでおたくはどうやったの?」でいいのさ。
長い目で見たら人生に無駄な時期など全くないのだから。
つまり世の中に不要な人などひとりもいないのだよ。

いや、これ良書ですわ。
鬱になっている人におすすめです。
読み終わったら感想文書こう。
 (すぐ影響される)
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次回は新丸子駅から武蔵小杉駅へと向かいます。

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