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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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Agree to disagree

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先日、感情的になっている人に対してどう対応したらよいものかと人と話し合っている最中に考えていたことがあります。
感情的になっている人には、こちらが冷静に対処したうえでそれでも落ち着かないのなら距離をとるしかないという話になったとき、自分の側の感情は祈るなどして整理するとしても、相手に対する優しい眼差しをどう持ち続けたものだろうかと考え込んでしまいました。
私の周囲にはあることにかたくなな人が複数いて、それは自己もまたかたくなであることの証左なのでしょうけれど、細かいことでも板挟みになると本当に困ります。
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2003年のドラマ『白い巨塔』を観ていたときに思ったのです。
医師としての技術に長け、才気もあって知識も豊富ゆえに傲慢で野心家の主人公財前五郎。
地位や名誉、財産を求めず、ひたすら目の前の患者に向き合い、かつ地道に医学を研究する里見脩二。
二人は何を信念として生きるかの違いから、職場でも裁判でもことごとく対立するのに、より深いところでは互いを信頼し尊敬しあっています。
最後は死を前にしてあれほど強がっていた財前が里見を頼り、里見は全力で財前を支えようとします。
あの二人の間の友情って、どうして成立するのだろうと疑問に思うのです。
大概の人は、里見医師の側に肩入れするでしょう。
私はドラマや小説の中とはいえ、どんなに穏やかで冷静な人間であっても「あれほど傲慢で自省のない人間が傍にいたら、いくら友だちでも距離を取るのに」と想像してしまうのです。
 
同じような設定に、プラトーンというベトナム戦争の映画がありました。
戦争という極限状態の中、生と死のはざまで対照的な人間性ゆえにいがみ合う二人の上官、エリアスとバーンズ両軍曹。
結果は最悪で、混戦のどさくさに紛れてバーンズはエリアスを死へと追いやり、生き残ったバーンズを彼の仇とばかりに主人公が射殺するというものでした。
二人の間で板挟みとなり、最後には殺人を犯す主人公が、エンディングで述懐している言葉が印象的でした。
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今振り返ってみると、僕たちが戦ったのは敵ではなくて僕たち自身だったような気がする。
敵は僕たちの中に存在したのだ。
僕の戦いは終わった。
しかし戦場の記憶は死ぬまで消えることはない。
エリアスとバーンズの確執は僕の心に取り付いて離れない。
どうかすると僕は、あの二人を父として生まれた子どものような気がすることがある。
 
I think now, looking back, we did not fight the enemy; we fought ourselves.
And the enemy was in us.
The war is over for me now, but it will always be there, the rest of my days as I'm sure Elias will be, fighting with Barnes for what Rhah called possession of my soul.
There are times since, I've felt like the child born of those two fathers.
 
このことを考えていたとき、“Agree to disagree”という言葉があるよと教えてくれたひとがいました。
検索すると、「意見の相違を認めて争わないことにする」という訳が出てきますが、実際はもっと深い意味があるようです。
このフレーズをはじめに使用したのはイギリス国教会の司祭であり、のちにメソジスト運動の伝道者となるジョン・ウェスレー(1703-1791)です。
途中まで伝道をともにしてのちに袂を分けたジョージ・ホウィットフィールド(
1714-1770)の死に際しての記念演説のなかに、このフレーズは出てくるそうです。
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(ジョン・ウェスレーさんは青山学院大学正門の右側にいらっしゃいます)

一般に議論することを、より狭い意味での競技ディベートなどと混同している人がいます。
そういう人は、議論には優劣や勝ち負けが必ずあると信じている節があります。
相手を言い負かせればそれで勝ちだと思い込んでいる人など、傍目に見ても揚げ足取りに終始していたり、議論の中に自己矛盾をあちこちに露呈していたりして、見苦しい限りです。
だから私は「論破」などという言葉は大嫌いなのです。
また、きわめて日本的で陰湿なやり方ですが、根回しをして外野を納得させ、無理やり自分の意見を押し通そうとする人もいます。
自らの欲する果実を得るためには手段を選ばずという具合に。
こういう人たちは、望む結果が得られようと得られまいと、いったん綻びが出ると互いに転嫁しあうだけで、自ら責任を取ることは決してしません。
 
「民主主義における多数決とは、少数意見に耳を傾けるためのシステムで、マジョリティがマイノリティを圧するためのものではない」という話を授業できいたことがあります。
そもそも、相手に対して反対をする権利は互いにあるのですから、議論が平行線のままでも構わないと思うのです。
そういう前提さえあれば、結論が180度違っても、たいしたことにはなりません。
どちらが正義でどちらが悪かなど、裁判所のように勝敗を判定しなければならないと思っているのは、理性ではなく感情なのではないでしょうか。
(実際に何らかの損害を被った場合は別です)
 
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自らは己の信じる世界にいき、他は他の信じる世界にいきることをよしとするなら、相手を裁いたり貶めたりすることも、意見や目論見を叩き潰したり、誰かをのけ者にしたりする必要もありません。
もし、自分の側でそうした行為に躍起となっているのなら、それは自分が何かに執着していることの証なのでしょう。
「他人や外の世界を変えようと必死になっている人ほど、実は自分を変えることに大きな恐怖を抱いているのだ」という言葉は、頑固な自分にとっては耳が痛い限りです。
ただ、「私はその意見やあなたのやり方には同意できない」ということだけは、はっきりと表明しなければなりません。
 
この歳になって、こんなことを書くのも恥ずかしいのですが、私もドラマの里見先生のように、友情はそのままに相手を尊重したうえで、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールの名言とされる言葉をはっきりと言えるようになりたいと思います。
そして、たとえ自分の信念や価値観に合わない主張や行動をしている人であっても、同じ人間として暖かで優しい眼差しを持ち続けたいものです。
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『この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金と言うべきそれだ。あらゆる人間には、善と悪をわかつ亀裂が走っており、それはこの心の奥底までたっし、強制収容所があばいたこの深淵の底にもたっしていることが、はっきり見て取れるのだ』(V.E.フランクル著 池田香代子訳 『夜と霧』より)



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