Quantcast
Channel: 旅はブロンプトンをつれて
Viewing all articles
Browse latest Browse all 932

旧東海道へブロンプトンをつれて 37.藤川宿から38.岡崎宿へ(その2)

$
0
0
大平一里塚跡から、旧東海道を京方向、岡崎宿へと向かいます。
一里塚跡の120m先、広めの市道にぶつかりますので、左に折れて、国道1号線の大平町新寺交差点(34.941811, 137.192058)で横断し、再びお向かいの路地へ戻って進みます。
120mほどで国道1号線に合流します。
わずかな旧道探索ですが、国道1号線に合流する手前に大平八幡宮(34.944361, 137.192648)の入り口があります。
ここはもともと戦国時代にこの地をおさめていた多門重信の城跡です。
まだ、家康が松平姓を名乗って人質になっているころのお話です。
重信はのちに蜻蛉切で有名な本多忠勝の家来となり、三方ヶ原の戦いで戦死しました。
もう、家康の出生地である岡崎が近いので、徳川関連の史跡が増えてきています。
イメージ 1
(左;大平一里塚跡)

さて、このまま国道の歩道を180mほど進むと、東名高速道路の岡崎インターチェンジ出口にぶち当たります。
ここはしかし、旧東海道の旅人に対して親切にも、取り付け道路の下をトンネルでくぐるよう、脇道が設けられています。
車がひっきりなしに出てくる手前の路地を右斜めに進み、なにやらお城の形をした石高をあらわす意味深なホテルの前(34.944504, 137.190370)でアンダーパスに入り、トンネルを3つ連続でくぐります。
トンネルの中には明かりが全くないし、風紀が良い場所とはいえないので、夕方近くにここを通ると、女性であればちょっと危険を感じる場所かもしれません。
アンダーパスを出てきても、右手の山の上にはキラキラしたネオンサインが輝いて、渋滞している車の中の人々も含め、地道に街道をたどっている自分とのコントラストが際立つ場所です。
イメージ 2
(太平八幡神社付近)

再び国道1号線の歩道に戻ります。
道の向こうには、これまた家電量販店だの、育児用品専門店だのファストフード店がまばゆいばかりに立ち並び、車社会になった今や人間の欲望は、インターチェンジに集中する時代になったのだなと感じます。
そういえば、日本橋を出て以来、現代の物流の中心である東名高速道路と旧東海道が交わるのは、蒲原宿~さった峠付近、清水と府中(静岡)の間の草薙付近、掛川宿の西郊、音羽蒲郡~本宿付近、そしてここ岡崎インターの5か所しかありません。
これに対して東海道新幹線は、旧東海道とはもっと多く交わります。
いかに旧東海道と東名高速道路が縁遠いかを物語っています。
 
イメージ 3
(小豆坂古戦場へは、手前から往復した方が近そうです)

アンダーパスをくぐってから150mほど進むと、愛知県道26号線、通称岡崎環状道路と岡崎インター西交差点(34.947074,137.187224)で交差します。
時間があるのなら、交差点を左折して環状道路の歩道を南へ、乙川を渡ってみましょう。
橋を渡って対岸の坂道が、小豆坂(あずきざか)です。
インター西交差点から1.9㎞南の光が丘交差点先左手に、古戦場碑(34.930330, 137.180498)があります。
ここは1542年に弱体化したこの地の豪族、松平氏の隙をついて、織田信秀(信長のお父さんです)と今川氏が、その6年後の1548年にはやはり信秀と、今川氏と結ぶ松平氏が2回にわたって戦いを繰り広げた場所です。
その時代は織田氏も尾張の一豪族に過ぎず、どの家も少しでも勢力を広げるべく必死の時代でした。
旧東海道を旅する時、このような勢力争いの場は実力が伯仲しているときに境界だった例が多く、織田と今川に挟まれた松平氏の微妙な立場が何となく理解できます。
また、この場所を確認しておけば、のちに織田信長が今川義元を破る桶狭間という場所が、どのような位置関係にあったのかがわかります。
イメージ 4
(岡崎インター出口付近)

旧東海道に戻って愛知環状道路を横断します。
そのまま歩道が講演の中に入り、東海道を模した松並木の間を抜けます。
ここにはベンチもあり、居心地が良いかどうかは別にして、足を休めることができます。
さらにその先、国道1号線の側道のような路地をゆくと、右手にキャッスルという名前の喫茶店が現れます。
なんでしょう、先ほどのホテルといい、ここといい、岡崎の人はお城に執着でもあるのでしょうか。
そう疑問に思ったら、ぜひ岡崎城を訪ねてみてください。
城としては有名ではありませんが、市民のお城に対する思いはよく伝わってきます。
イメージ 5
(インター取り付け道路下をトンネルでくぐります)

岡崎インター西交差点から400mほど、旧東海道はつきつ離れつを繰り返しながら、国道1号線にそってゆきますが、その先で右手の丘にのぼってゆきます。
国道1号線をあと450mほど進んだ朝日町4丁目交差点(34.951324, 137.179225)を左折すると、すぐ右手に若宮八幡宮(34.950751, 137.178149)があります。
ここが家康の長男、松平信康のお墓のある場所です。
歴史好きの人なら、家康の長男で信長の娘である徳姫の夫として彼のことを記憶しているひともいるでしょう。
前に佐鳴湖のところで家康と妻の築山御前の不仲な話をしました。
2人は信康と亀姫という一男一女を設けたわけですが、兄も妹ものちに家族関係でいろいろあったのです。
この辺が、徳川家康という人物の人柄を、なんだか得体のしれないものにしています。
イメージ 6
(インター西交差点付近)

ホームドラマ仕立ての時代劇などでは、夫信康と姑の築山御前が、宿敵武田勝頼と内通していることを徳姫が嗅ぎ付けて、それを父信長に報告し、信長は家康に弁明を求めますが、交渉役にたった老臣たちがことごとく信康を庇わなかったために、信長から家康へ、妻と長男を始末するよう強要があったという形にまとめられています。
この説に従えば、不仲だった妻はともかく、武芸に秀でた長男を家康は泣く泣く自刃に追い込んだということになります。
しかし、近年になって織田・徳川両家の記録を分析すると、もともと家康と信康の仲が悪く、代替わりを巡って問題が起きたために、謀反の疑いをかけて死に追いやったのではないかという説が出てきています。
そのときは、家康は浜松城に居て、岡崎城を信康に譲っていました。
イメージ 7
(左;東海道松並木を模した公園)

この時代の父子骨肉の争いというのは、何も松平氏に限ったことではありません。
武田信玄がお父さんを駿河に追放することで家督を得たのは有名な話ですし、織田信長だって、よき理解者とはなっているものの、お父さんの信秀は相当彼に対して手を焼いていたそうです。
信長が若いうちにお父さんが病死したからよいものの、両方とも激しい性格でしたから、あのまま信秀が存命していたら、信長だってどうなったかわかりません。
しかし、家康の父子対立は、武田氏や織田氏のそれよりも、築山御前の殺害といい、何か裏に事情があるというか、陰湿なものを感じます。
若宮八幡宮を建立したのはやはり家康の古い家臣である石川数正です。
彼は家康と同じように今川氏の人質となっていた築山御前(といっても彼女にとっては実家)と幼い信康を、松平氏に取り戻した人物です。
そして後年、家康を見捨てて秀吉の家来に走るという、謎の出奔をした人でもあります。
松平信康を通して徳川家康を考えるとき、どうしても釈然としない感覚が残るのは自分だけでしょうか。
イメージ 8
(国道1号線から分かれて台地上へとのぼる)

さて、国道1号線と離れて北側の台地上へとのぼってゆくと、左側に冠木門と石のモニュメントがある変則交差点(34.951507, 137.181400)に出ます。
これが、岡崎二十七曲の碑です。
同じように街の防衛のために設けられた遺構として、掛川宿には七曲がありましたが、こちらは二十七曲です。
旧東海道を忠実に辿ろうという旅人にとって、ある意味では関門にあたります。
なにせ歩いているときには間違えたらやり直しになってしまうので、一角一かどを慎重に曲がらざるを得ませんでした。
イメージ 9
(二十七曲碑と冠木門)

碑文を読むと二十七曲は田中吉政が城主だった15701600年に普請されたとあります。
秀吉の近衆として石田三成のお友だち、関ヶ原の戦いの後、山中で彼を捕らえたあと処刑まで手厚くもてなしたお方ですね。
あまり有名ではないのですが、彼は浄土系の仏教に帰依していたのに、キリスト教の洗礼を受けて、のちに禁教になるとキリシタンをひそかに保護したといわれています
ええと、関ヶ原が1600年だから、田中吉政が岡崎城主だったのは秀吉の時代です。
松平氏の根拠地だった岡崎城は、前述の松平信康自刃のあと、徳川家重臣が管理していましたが、家康の関東移封に伴って、秀吉の息がかかった彼が入ってきたわけです。
吉政は宿場内の街道を整備したほか、掘割も築いたそうです。
防衛のためだけではなく、この二十七曲が岡崎宿の商業発展にも寄与したといわれています。
 
イメージ 10
次回は岡崎宿の中を、二十七曲に注意しながらご案内しようと思います。
 
旧東海道ルート図 (本宿駅入口~知立駅入口)

Viewing all articles
Browse latest Browse all 932

Trending Articles