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旧東海道へブロンプトンをつれて 37.藤川宿から38.岡崎宿へ(その1)

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(右;山の上に見えるのが愛知産業大学)

旧東海道は岡崎市立藤川小学校の前、藤川宿の西棒鼻跡((34.912406,137.217928))から続けます。
前回ご紹介した芭蕉句碑のすぐ後ろには、閻魔堂があります。
これは閻魔大王の像が収められていて、江戸時代に子どもなどに「現世で悪い事をしていると、閻魔様に裁かれて地獄へ落ちるよ」という戒めとして使われていたようです。
御油と赤坂宿の間にあった十王堂も同じ趣旨のものです。
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 (左;吉良道との分岐 右;その先の名鉄線踏切)
                 
その先、小学校手前と名鉄線の踏切(34.915329, 137.212510)を渡った先に松並木が残っています。
旧東海道を自転車で走ったり歩いたりしていると、松並木に対しても目が肥えてきますが、ここの松並木は樹の高さといい樹勢といい、かなり見事です。
とくに踏切の先の並木は、緩い下り坂とあいまって、日光の杉並木をほうふつとさせます。
御油赤坂間のように、車の通行を制限しておらずにここまで保存するのは、さぞかし大変だっただろうと思います。
風害、マツクイムシなどの害虫、戦時の燃料採取、道路や周囲のアスファルト化など、さまざまな逆境に耐えてここにあるわけですから。
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(松並木 日が照っているときのコントラストが綺麗です)

藤川小学校前から520mで名鉄線を踏切で越えるのですが、その手前で左に県道272号線が分岐しています(34.914905, 137.212876)。
これがむかし吉良吉田から塩を運んでいた吉良道との分岐です。
踏切から右手をみると、山の上に大学の校舎が見えています。
これが愛知産業大学です(34.920483, 137.222114)。
関東の人にはさっぱりわからないのですが、比較的新しい大学で、デザイン系の学校のようですね。
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(左;国道1号線合流点の藤川町西交差点 右;歩道をゆく)

踏切を渡ったさき、下り坂で松並木を抜けてゆくと、470mさき藤川町西交差点(34.920483, 137.222114)で旧東海道は国道1号線に合流します。
ここからは例によってつまらない、国道の歩道を走ることになります。
しかし、概ね下り坂で、歩道も幅が広いため苦労はしません。
岡町神馬崎信号(34.922627, 137.204507)から先は、一段上に側道が並行しているので、そちらを走りましょう。
遠くまで見渡せて国道の混雑具合がよくわかります。
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(右;黄色い建物が愛産大留学生寮)

このあたりの地名を美合というのですが、平日の朝夕など国道は岡崎市中心部へ出入りする車で激しい渋滞に見舞われています。
やはり愛知県はクルマ社会なのだと実感します。
美合といえば、並行している東名高速道路の美合パーキングエリア(34.920361,137.234632)付近が、事故多発地点として有名です。
私も何度か東名高速道路を車やバイクで走って西へ向かったことがあるのですが、ちょうど東京の用賀を夜に出て、休息をとりながら走ってくると、朝にこの付近へさしかかるのです。
すると、浜松からこの辺りまで、明け方にカーブの続く高速道路を緊張して運転してきた気分がこのあたりでプツリと切れ、岡崎市や名古屋市に向かう車の渋滞の最後尾に追突してしまう事故のパターンがあるそうです。
新東名高速道路が豊田東インターチェンジまで開通した今、どれほど状況が変わったか知りませんが、昔は夜に車を運転して走ってくると、この辺りで朝の渋滞に巻き込まれ、眠くて仕方がないので美合パーキングに車を入れて仮眠をとるということが、何度かありました。
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(右;案内板はあるものの横断歩道はない市道交差部分)

話を旧東海道に戻しましょう。
国道合流点から940m、概ね下りの左側歩道を走ってくると、先ほどご紹介した愛知産業大学の留学生寮がある場所(34.924342, 137.202256)で、左手に路地が分かれてゆきます。
こちらが旧東海道です。
180m先で坂をくだり切って市道にぶつかります(34.925207,137.201037)。
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(右;県道との交差部分。面倒くさくても迂回しましょう)

横断歩道がなく横切れないため、右折していったん国道1号線に戻り、美合新町北の信号(34.925741, 137.201463)で市道を渡ってふたたびお向かいに戻り、旧道をたどります。
住宅街のなか、ところどころに松の残る道を進んでゆくと、美合町新町北交差点から800mさきでまたもや横断できない県道に行く手を阻まれます(34.930306, 137.196147)。
仕方ないので、またもや右折して国道まで戻り、ほたる橋南信号(34.930425,137.197346)で県道を渡って戻ってきます。
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(旧街道をそのままたどれないなのがもどかしいのです)

この辺り、市道も県道も国道1号線に出る車で片側はだいたい渋滞しています。
こちらがもともとあった旧東海道なのだから、横断歩道のひとつ設けてくれればよいのに、おそらく車の流れが悪くなるのを嫌って設置しないのでしょう。
歩いているときはいちいちゆきつつ、もどりつつを繰り返し、馬鹿にされている気がしました。
ここにもクルマ優先社会の現実を見るような気がします。
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(左;高橋 右;乙川に突き当たったら右折)

ほたる橋南交差点から450m、高橋(34.931362, 137.195879)という小さな石橋で山網川を渡ったのち、旧東海道は乙川にぶつかります(34.933502, 137.195388)。
昔はこの場所に橋が架かっていたそうですが、今は何もないので、みたび右折して国道まで戻り、迂回して大平橋(34.934017, 137.196319)を渡ります。
渡り切ってすぐの路地を左折(34.935447, 137.196179)して、乙川の対岸、大平川水神社(34.934759, 137.195036)のある川岸へ行ってみましょう。
脇に小さな馬小屋が合って、こちらを例の悲しそうな目で見つめています。
1頭ではなく2頭いて、片方は白馬のポニーなので観光馬かもしれませんが、運が良ければ河原で草を食んでいる姿をみることができます。
そういえば、運送手段として江戸時代は牛馬が大活躍したはずなのですが、日本橋からここまで、生きた馬というものを一度も見た記憶がありません。
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(左;迂回して大平橋を渡ります 右;乙川左岸で草を食む馬)

旧東海道を戻って大平町東交差点(34.937246, 137.195656)で国道1号線を渡りましょう。
交差点からおよそ300mさきの、岡崎大平郵便局の角(34.939983, 137.194932)を右折して、200mほど進んだ先右側に、大きなお屋敷の壁が現れます。
ここが大岡越前守陣屋跡(34.940515, 137.196214)です。
そう、あのテレビの大岡裁きで有名な大岡忠相の陣屋です。
正式な名前は、西大平藩陣屋跡といいます。
つまり、彼は1万石程度の小藩ながら、ここで知行地を与えられていた大名なのです。
しかし、実際彼は生まれも育ちも江戸であり、活躍したのも江戸でのお話です。
大岡家の領地は神奈川県の茅ヶ崎にあり、もともとここは縁もゆかりもない土地でした。
ではなぜこのような遠隔の地に彼の陣屋があるのでしょう。
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(左;大平橋を渡ったら1本目を左折 右;いったん乙川右岸に戻ります)

実はこれには深いわけがあるのです。
大岡忠相は、もともと石高2000石未満の旗本の家柄に生まれました。
それがときの八代将軍徳川吉宗に見いだされ、享保の改革に手腕を振るい、町奉行として行政機構の改革、災害(大火)対策、貧民救済、貨幣流通量の調整と、大車輪の活躍をしたのはご存知の通りです。
当時の江戸町奉行は、東京都知事と、警視総監と、最高裁判事とを兼務したような職種で、権力がある代わりにとても多忙な職種でした。
だから町奉行職に在任中は、公的私的を問わず、たくさんの部下を抱えて仕事をしていました。
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(左;かつてからの移動手段と、平成のポニーのご対面 右;大平水神社)

ここで、時代劇のために勘違いされやすい桜吹雪のあのお方との違いを明らかにしておきましょう。
大岡忠相(1677-1752)が、南町奉行に就任してお仕事をしたのは、享保の改革(1716-1745)で、将軍は吉宗でした。
テレビドラマ等では、吉宗が主人公で大岡忠相が補佐という役回りで登場することも多いと思います。
ドラマでよき理解者として小石川養生所の医師、榊原伊織が出てきますが、彼は全く架空の人物です。
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(旧東海道を忠実になどるのなら、橋の架かっていた部分はきちんとみておきましょう)

対する遠山景元(1793-1855)が北町奉行職を奉じたのは、天保の改革(18301843)で、ときの将軍は家斉、改革を主導したのは老中首座の水野忠邦(1794-1851)でした。
彼が幼少から青年期にかけて複雑な家庭環境によって家を出て、市中で放蕩生活をおくっていたのは本当の話です。
また、確証はないものの、入れ墨は入っていたらしいという話があります。
ただ、奉行在職中は水野と仲が悪く、また対立者兼悪役として鳥居耀蔵が出てくるのはこちらです。
彼は北町奉行から大目付になり、さらにその後南町奉行にもなっています。
つまり、大岡忠相より遠山景元のほうが、ふた世代後の人物ということです。
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(将来タイムマシーンが発明されたなら、携帯用ウォシュレットを持ってゆくとよろしいかと)

なお、大岡忠相は61歳の時に石高を加増され、6000石ほどの身分となり、町奉行から寺社奉行へ昇進します。
寺社奉行という職種は、宗教行政を担うといいながら、勘定、町、寺社の三奉行中頂点に位置し、名誉職的な意味合いも含んでいました。
忠相は寺社奉行に就任後も、町奉行職の一部を兼務していたそうです。
そして、この程度の石高にまでなれば、大名格といって間違いないのですが、忠相の身分は依然として旗本のままでした。
通常、大名となると江戸城内に控えの間が与えられ、2030名程度の奏者番とよばれる、本人の礼式を取り仕切る部下がつけられます。
しかし、旗本の忠相には控えの間もなく、奏者番もいませんでした。
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(左;大平町東交差点を渡る 右;郵便ポストが見えたら右折すると大岡陣屋跡へ)

のちの幕末の頃、御三家の大名である水戸藩の徳川斉昭が、江戸城に無断登城して井伊直弼から謹慎を命じられた話は有名です。
大藩、しかも徳川一門の大名であっても、江戸城における礼式を破るということは、大罪だったわけです。
それを一介の旗本にすぎない大岡忠相が、介添えも無く、自分の部屋も与えられず、寺社奉行として城内で政務に参与するのは、とても危険なことでした。
案の定、大名である同僚の奉行たちから、相当ないじめを受けていたそうです。
数年後、これに気付いた吉宗が配慮して彼のために詰めの間を城内に与え、寺社奉行就任から12年もたってやっと、この大平町に一万石の知行地を与えることで藩主として取り立て、彼の身分はようやく大名になったというのが真相だそうです。
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(まるで町奉行所のようないでたちですが…)

窮屈な身分社会で、あの時代劇では颯爽とした大岡越前守が、その後老齢になってこんな目に遭っていたなんて、本当に気の毒な話です。
やはり有能なら有能で「出る杭は打たれる」が如く陰湿ないじめを受けるのですね。
吉宗も、お忍びで「旗本の三男坊」とか名乗ってめ組の頭のところへ遊びに行く暇があったら、忠相を早く大名格にしてやれよ、などと思ってしまうのでした(すべてフィクションです)。
実情は町奉行から大名になった前例がなくて、将軍といえどもそう簡単に忠相を大名に取り立ててあげられなかったようです。
(江戸時代を通じてその例は大岡忠相ただ一人)
なお、この西大平藩は幕末まで大岡家が知行地として相続したそうです。
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(左;陣屋跡内部 右;大平一里塚跡)

さて、大岡裏話はこれくらいにして、旧東海道まで戻って京へ向かいましょう。
岡崎大平郵便局から200mほどで、大平一里塚跡(34.941397, 137.193655)に到着します。
ここは道の左側だけながらちゃんと一里塚を復元しています。
次回はこの大平一里塚跡から岡崎宿へ向かいましょう。
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旧東海道ルート図 (本宿駅入口~知立駅入口)

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