本宿の一里塚跡から旧東海道を西へ向かいます。
東海道を旅している人ならピンとくると思いますが、ここは江戸時代には間の宿でした。
本宿は「もとじゅく」の読み名通り、はるか昔は「元宿」であったと『今昔東海道独案内』にはあります。
そう、徳川家康が五街道を制定するずっと前の室町時代、ここが元の赤坂宿だったというのです。
御油-赤坂の宿駅間の短さと、それに不釣り合いな赤坂-藤川間の長さに加え、峠の直下という地形を考えると、たしかにここに宿場があった方が合理的です。
しかし、宿場が移転するには何か理由があるはずです。
吉原や白須賀のような津波による被害だとか、山崩れや火山の噴火、大火事など自然災害を想像したのですが、原因ははっきりと分りませんでした。
ひょっとして、大名同士の勢力争いに巻き込まれたとか、悪政による一揆がらみとか、政治的、経済的な理由があったのかもしれません。
今度行った時には聞いてみようと思います。
(宇津野邸跡)
一里塚跡から330mほど進んだ左側に、土壁の塀をめぐらした長屋門があります。
ここが江戸時代の医家であった宇津野氏邸跡です。
この家の主、宇津野龍碩はシーボルトの門人、青木周弼から医学を学びました。
宇津野は安政年間にこの地で種痘を施していたそうです。
青木周弼は萩出身で、江戸に遊学した際に坪井信道に師事してオランダ語を学び、そこで同門だったのがあの緒方洪庵だそうですから、世の中広いようで狭いです。
(左;本宿沢渡交差点 右;東海中入口交差点)
洪庵の方は、その後長崎でニーマンという医師について医術を学ぶので、シーボルト門下とは別流ということになるのですが、彼が誤解を乗り越えて種痘を世に広めた話は有名です。
司馬先生も本に書いていましたけれど、あの時代は蘭語を学び蘭学者になるということは、ほとんど医術を学んで蘭方医になることと同義だったそうです。
げんに大阪の船場にある洪庵の適塾へ行ってみると、そこの生徒さんたちが外国語を学んでいたのか医学を学んでいたのかいまひとつはっきりしません。
ただ富田病院のところでも触れましたが、江戸時代も後半になると地方の名家がすすんで都市に留学して、先進の学問や医術を学んだというところが日本独特だなと思います。
(右;歩道脇の通路をおりて、旧道に合流します)
一里塚跡から500mほどの本宿町沢渡交差点(34.895027, 137.253698)で旧東海道は国道1号線に合流します。
そこから国道の左側歩道を走り、450mさきの東海中学校入口信号(34.897064, 137.249400)で国道を渡って、今度は京へ向かって右側の歩道を西へ向かいましょう。
左側に4車線の国道、右側に名鉄名古屋本線が並走します。
国道には過積載のトラックを取りしまる看貫とよばれる量りのあるスペースがあります。
大型車は抜け道を走ることのできないこうした山あいで一斉に取り締まりをして、重量オーバーの車を検挙しているのでしょう。
積載重量オーバーの大型車って、道路を傷めますよね。
ごくたまにですが、ダンプ街道と呼ばれる道を走ると、舗装がかなり波打っています。
でも、今の時代取り締まりを始めた途端に一斉メールなどで情報を配信されて、トラックが来なくなるということもあるのではないでしょうか。
(名電山中駅付近)
さて国道をゆくと少し緩やかなのぼりにかかります。
これは地図をみれば分るのですが、同じ乙川水系の鉢地川から山綱川へと丘を越えて違う谷間へ移るためです。
峠からのぼりおりする道は、このように途中で谷間を変更する道と、同じ川を延々とさかのぼる場合とがあります。
東海中学校入口交差点から330mほど先で、歩道から右下にはずれて名鉄線と国道の間にある旧道を走ります。
(左;冠木門を模したベンチ 助かります 右;舞木橋)
450mほどさほど急でない坂をのぼり切ると、県道と交差しますがこの左側に名電山中駅があります。
「山中」の名前通り、山の中にポツンと佇む駅で、一日の乗車人員は500名前後、乗降合わせても1,000名程度の小さな駅です。
今のように遠隔で駅を管理するシステムが導入される前は、駅舎が無くてそれぞれのホームに小屋があるだけの、風情のある駅でした。
かなり昔のこと、夜中にオートバイで国道1号線を走行中に眠気を催したとき、この駅の小屋で横になったことがあったのですが、いきなり踏切が鳴り、幽霊電車が来たらどうしよう…の世界でした。
(右;舞木町西信号)
旧東海道を走ってくると小さな峠になっていて、道周りも家は新しくなっていますが昔の立場の雰囲気を残しています。
東海道名所図会によると、この村の名産は白苧染(「しらおぞめ)と苧の細工だったそうです。
苧とは現代ではカラムシと呼ばれるイラクサ科の多年草です。
葉の見た目は桑とよく似ています。
その昔は良質な繊維が採取できるので、この草から紙や衣類、漁具などをつくっていたそうです。
ということは苧細工ということはひも状の何かの道具でしょうか。
例えば草鞋紐とか。
いまは会津地方のみで栽培しているそうです。
おそらくは、この村に土産物を売る茶店があったのでしょう。
そこに看板娘がいて…なんて想像しながら下りにかかると駅入口から370mさきの左側に冠木門のレプリカがあってここ舞木村の由来が書かれています。
なんでも飛鳥時代にここに空から神樹の一片が落ちてきたことから、木が舞い降りるが転じてこの名前になったそうです。
(山中八幡宮。開運御身隠山と石碑にはありました。身を隠すというのもひとつの戦略です)
その先の舞木橋で山綱川を渡り、山中駅前から710m坂を下ると舞木町西信号(34.903440, 137.235204)で旧東海道は再び国道1号線に合流します。
横断歩道を渡り、国道左側の歩道を西へ向かいましょう。
150mほど離れた左側にこんもりと樹を茂らせた小山があります。
手前の田圃に石灯篭と鳥居が認められます。
これが山中八幡宮(もと舞木八幡宮)です(34.903440, 137.235204)。
ここは家康が若いころ、三河一向一揆衆の軍勢に追い込まれ、この山中にある洞窟に隠れた場所です。
追手が洞穴の入口に近づくと、穴から二羽の白い鳩が飛び立ち、捜索が打ち切られたため、家康が命拾いをしたとう逸話があります。
その後、彼は社を建てて東海道を通るたびに詣でたそうです。
この話、家康が大ファンだった頼朝の石橋山の戦いの故事によく似ています。
(舞木検査場)
三河一向一揆との戦いは、三方ヶ原の戦い、神君伊賀越えと並ぶ家康三大危機のひとつに数えられます。
あの徳川家康が一揆勢に追い詰められるなんてと思うでしょうが、この時はまだ若い家康の松平家が盤石とはいえない時代の話で、宗教的な思想もからんで家臣団を二分するお家の一大事だったようです。
このことに懲りて、家康はのちのち宗教に対して警戒心を抱くようになったといいます。
キリシタンの禁制も、一向衆が信じる浄土真宗の分裂も、この出来事が遠因になっているという説もあるくらいです。
あれ、でも家康は真宗の兄弟宗派のような浄土宗に帰依していた気がするのですが、どうも晩年はあちこちの仏教宗派とバランスをとっていたようです。
(左;山中八幡宮の入口は東海道側にもあります 右;道の駅の表示の先を左に入ります)
舞木町西信号から国道わきの歩道をゆきます。
山中八幡宮のある丘を右から回り込むように避けて西へ進みます。
国道右手の丘の上には名鉄の車両検査場が見えています。
このあたり、行き交う人もほとんどおらず、歩道の幅はじゅうぶんに広くて走りやすいのですが、旧街道の面影は全くありません。
国道1号線に出てから710mほど進み、市場町交差点(34.907343, 137.230674)のすぐ先、名鉄の陸橋を越える手前に左に分岐している路地が旧東海道の藤川宿入口です。
次回はこの藤川宿についてご紹介したいと思います。
旧東海道ルート図 (本宿駅入口~知立駅入口)