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旧東海道へブロンプトンをつれて 36.赤坂宿から37.藤川宿へ(その2)

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2013年の1230日午前840分、名電長沢駅に降り立った私とDANさんは、旧東海道を西へ向かいます。
昨日浜松駅からここまで走って、疲れが取れきっていないというのもあるのかもしれませんが、とにかく寒いのです。
ただ、昨夕と違って風がないのが救いです。
駅から坂をくだり四車線ある国道1号線を渡るのですが、こんな山あいの場所にもかかわらず、お向かいに小学校があるせいでしょうか、地下横断通路が設けられています。
むかしバイクで一国の下道を走っていたころ、この辺りは信号も少なく、速度違反の取り締まりが行われ、白バイが良く出没する場所だったことを思い出しました。
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(観音堂跡)

商店のような店構えの簡易郵便局の角(34.870576, 137.286292)を右(西)方向へ曲がると、旧東海道に復帰です。
ゆるゆると坂をのぼってゆきます。
この辺りは軒板塀や連格子の家がちょくちょくあって、旧道らしいです。
600mほどゆくと右側の草むらの奥に小さな石の観音さまがポツンと佇んでいます(34.873602, 137.280681)。
ここは落馬して死亡した旅人を供養して観音堂を建てた跡地です。
東海道を歩いていたときも思いましたが、峠付近には事故や病気で亡くなった旅人を供養するモニュメントが多いですね。
手前には江戸後期の地元の詩人、糟谷磯丸(1764-1848)の晩年の歌碑が建っています。
 
おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを
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(やがて旧東海道は国道に合流します)

「おふげ人」とは…何でしょう
ふげ=不言だとすると物言わぬ人という意味になりますね。
磯丸は伊良湖の漁師で、母の病気治癒を願って神社に参拝した折、他の参詣人が額に掲げられた和歌を詠むのを聴いて、その存在を知りました。
しかし、当時30歳の彼はまったくの文盲で、それから10年近くの時間を費やして文字を覚え、85歳で生涯を閉じるまで数万首の歌を詠んだ人物です。
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(こういう道は、ホントつまらないです)

観音堂の先、千束川(といっても小川程度)を2度渡り返すと、旧東海道はついに国道1号と合流します(34.884190, 137.265670)。
側道のある場所はそちらを走るにしても、峠頂上までの1,400mあまりはバイパスの歩道を走ることになります。
周辺は工場や倉庫が立ち並び、クルマもひっきりなしに通るため走っていて面白くありません。
名鉄線が頻繁に行き来するのを横目で見ながら、えっちらおっちらとのぼってゆきます。
10分間隔で上下線合計12/毎時の列車が往来するので頻繁には違いありませんが、特急、急行、各駅が片方向2本ずつというのは前回お話した通りです。
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(左;市境標識が出てくると登りも終わりです 右;常夜灯と冠木門)

本宿町深田という信号(34.884190, 137.265670)で坂をのぼり切ると本宿記念碑と冠木門に常夜灯がある小さな広場があります。
ここは峠の名前こそついていませんが、西三河と東三河を分ける境界の山です。
現在は豊川市と岡崎市の境になっています。
豊川放水路を渡った高橋の標高が3mで、ここが標高110mです。
あそこから14.9㎞でその差107mをのぼってきたわけですから、平均で1㎞あたりおよそ7.18mのゆるやかな登りでした。
本来ならあずま屋かベンチが欲しい所ですが、あいにく見当たりません。
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この峠から三河湾方向、蒲郡市の三ヶ根山へと尾根が続いています。
東海道新幹線の西行き車窓なら豊橋を通過して豊川とその放水路を渡り、三河御津あたりで海をちらりと眺めた後蒲郡市の山側を通過し、その後長いトンネルに入って出た直後に東海道線の幸田駅を高架でかすめる、そのトンネル部分で通過します。
坂野坂トンネルという名前の長いトンネルで、子どもの頃にこのトンネルにまつわる怪談を読んだことがあるので、よく覚えています。
何でも衝突音がするので新幹線を停めてみると(停められるのでしょうか)衝突痕が何もないとか、ふいに中年男のうらめしそうな顔が車窓越しにトンネルの壁に映って、車内販売の売り子さんが泣き出してしまうとか、そんな話だったと思います。
何でもこのトンネル工事で殉職した東北出身の○○さんの霊だなんて書いてありましたが、あれは実話だったのでしょうか。
 
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(国道から左折してすぐ左奥にある広場。神社の跡なのかベンチがあり、春先には桜が咲いていました)

もうひとつ、先ほど話題に出た三ヶ根山の山頂には、殉国七士廟なるものがあります。
それは30年以上前の雑誌で読んだのですが、付近にやんごとなきお方がおいでになると、「お忍び」でここへ詣でるのだそうです。
何でお忍びなのでしょう。
それはここでお祀りされている七士の方々のお名前をみれば分ります。
敬称略で並べると、東条英機、板垣征四郎、松井石根、木村平太郎、土肥原賢二、武藤章の陸軍将官と、元首相の広田弘毅。
そう、ここは東京裁判で死刑判決を受け処刑された人たちの廟(1960年建立)なのです。
とばっちりで死刑判決を受けたも同然の元首相はともかく、「靖国とは別にここにあるのだからいいんじゃないの?」なんて暢気に思ったりしていたら怒られるのでしょうね。
広田元首相の遺族の意向を無視した無断合祀といい、私が靖国神社を評価できないのは、あの神社が「神道はなんでもあり」の理屈で勝手なことばかりしているように映るからです。
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(法蔵寺)

さて旧東海道に話を戻しましょう。
市境の交差点から下りにかかり、旧東海道は国道1号線の側道をゆきます。
側道ですが、防音壁はなく正面に岡崎市側の丘陵が良く見渡せます。

490mさき(34.888112,137.264242)で左に折れて国道とわかれ、135mほどいった橋の手前左手の山の中腹にそびえるのが、法蔵寺(34.888702, 137.261640)です。

このお寺は名所図会においては701年行基による開基と伝えられていて、その名を出生寺といったそうです。
日本武尊東征のおり、この寺の裏山で願掛けをすると岩の中から水が湧くのを見て、「賀勝、賀勝」と叫んだ故事から、ここの水を賀勝水と呼び、それを家康が幼いころ習字の硯水に使用したとか、出来上がった草紙を掛けて干した稿掛松(ぞうしかけまつ)と呼ばれる松があったそうな。
とにかく、奥の墓地には家康の祖先である松平一族、そして三方ヶ原や長篠の戦いで戦死した古参家臣の墓などが並んでいます。
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(林の中で複雑な表情の近藤先生)

それらの中で目を引くのが、新撰組局長、近藤勇の首塚です。
なんでも京都の三条河原に晒されていた近藤の首を、ひそかにここまで運んで埋め、その記録が昭和になって出てきたのだとか。
近藤は明治の世になって逆臣扱いされたので、その墓や首がどこへいったのか諸説あるそうです。
そういえば、函館戦争で戦死した副長の土方歳三の墓も、どこにあるのかわからないのですよね。
近藤は東海道に縁があるかと言われればさにあらず。
彼は甲州街道日野宿の近隣で、天然理心流という剣法の宗家(道場主)をやっていました。
それが、時の将軍家持の上洛に伴って護衛という名目で募った浪士組へ参加し、18632月に中山道を通って京へのぼっています。
それからの京での彼の活躍は、小説やドラマに取り上げられている通りです。
京から江戸への帰りは、新撰組が鳥羽伏見の戦いに敗れたのち蒸気船を利用していますので、東海道は通っていません。
そして流山で捕らえられ、板橋で斬首され、京で梟首されました。
このとき、近藤の首が東海道を通って京へおくられたのかは定かではありません。
 
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(富田病院の入口と富田家 今は建てかわっています)

これに対して土方の方は、有名になる以前は行商人をやっていたので、東海道は何度か歩いて往復しているそうです。
こちらのサイトに大政奉還の報を受けて江戸から京へ急行した土方の旅程(186710月)が出ていますが、戸塚、小田原、沼津、興津、島田、見附、白須賀、岡崎、宮、四日市、土山、草津の1213日間で踏破しています。
これ、時間がかかっているように見えてかなりのハイペースです。
彼は通常なら七里の渡しを利用する宮と桑名の間も、陸路(佐屋路)を移動していますし、興津~島田、白須賀~岡崎、四日市~土山など、歩いた実感からしたら現代人には日の出から日の入りではほぼ踏破不可能な距離だと思います。
この表からしたら、彼は江戸を発ってから8日目の夕刻にこの付近を通過しています。
ブロンプトンでは7日目の朝ということになっていますが、同じく尺取虫方式で歩いた時には13日目の朝でしたからね。
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(左;名残の松 右;本宿一里塚跡碑)

法蔵寺の先、川を渡って左手の丘の上に、城郭のようにそびえている富田病院(34.889833,137.260510)の位置が、本宿の陣屋があった場所です。

陣屋とはお代官屋敷のことで、この地を知行している旗本の住居兼オフィスです。
富田家が世襲していて、明治後期になって病院を開業されたようですね。
地方を歩いていると、このように地元の名家が病院を経営している例はかなりあります。
医は仁術と言われていましたから、地域貢献という意味合いが濃いのだと思います。
さらに旧東海道を進むと、左手に古い木造の社屋と右手に名残の松を見て、法蔵寺の前から600mほどで本宿一里塚跡(34.892796, 137.258719)に至ります。
一里塚手前の交差点を右折して、国道を地下道で渡れば、本宿駅の真下に出られます。
次回はこの本宿一里塚から続けたいと思います。
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旧東海道ルート図 (二川駅~本宿駅入口)

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