新居宿の入口、関所資料館の中にある今切の渡しの船着場から旅を続けます。
ふと脇をみると、石に足形と共に「無人島漂流者この地に帰る 1739.6.24. 平三郎子孫」とあります。
これだけでは何のことやらさっぱりと思って帰ってから調べると、新居の水主(かこ=船乗りのこと)平三郎のことだと分かりました。
彼は1719年(享保4年)、新造の千石船「大鹿丸」に乗って、仙台を目指しました。
幕府の御城米を廻送するためです。
仙台での積み荷を銚子まで運び、再び北上して南部藩の木材を積み、今の石巻市小竹浜から江戸を目指して出航したところ、九十九里沖にて暴風に遭遇し、2日漂流したのちある島に漂着しました。
船員は全部で十二人。
「自分たちはもうダメだ」と思って漂流していたところ、島を遠望したときは狂喜乱舞したそうですが、船が島へ近づくと、岩礁に乗り上げて破損し、上陸して人を探しても、ただ火山があるだけで、人のいない無人島ということが分かり、再び奈落に突き落とされたそうです。
彼らが漂着したのは、今の鳥島です。
鳥島って、八丈島の先の青ヶ島のさらに向こう、ちょうど青ヶ島と小笠原諸島の中間
くらいにある、周囲6.5㎞の無人島のことです。
九十九里沖から600㎞以上も南の、まさに絶海の孤島です。
(左;浜名橋からみた船溜まり 右;一応お店のデザインが古風になっています)
ときに平三郎21歳。
彼とともに帰還を果たす楫取り(=いまの操舵手)甚八は46歳、水主の仁三郎は40歳。
三人とも新居宿出身の、脂の乗り切った船乗りでした。
けれども、船が難破してしまっては脱出できません。
そんな中、ある洞窟に野営跡を見つけた彼らは、かつてこの島に滞在し、救助された者がいたのだと確信し、できるだけ積み荷を島へ揚陸し、救助を待つことになりました。
水は火山島のため雨水を容器に貯水し、火は火口近くまで行って種火を拾い(これがとんでもない難業だったそうです)、食料は魚を釣るか、渡り鳥を捕まえて食べるなどして凌いだそうですが、これでは脚気になってしまいます。
案の定、病気で倒れ死ぬ者が続出しました。
一年後に無人の船が漂着し、積み荷に籾があったため陸揚げしたところ、その籾が自然に芽吹いているのを発見して、陸稲の耕作にも取り組み、どうにか収穫できるところまでこぎつけたそうです。
水の無い火山灰の積もった土地で、百姓の経験の無い船乗りたちが陸稲の耕作って、どれだけ大変だったでしょう。
しかし、待てども暮らせども船は来るどころか沖を通りもしません。
鎖国の時代、法的にも船の構造的にも技術的にも遠洋航海は不可能でしたから、鳥島に近づく日本船があるわけがありません。
命は細々と繋いでいるものの、こんどは希望を失って自殺するものが相次ぎました。
一切他との交流と食物を断って即身仏になる者、沖に船の幻影をみて絶壁から海へ飛び込む者と、それは悲惨なものだったといいます。
結局15、6年後(!) には、新居出身の三人だけが残りました。
そしてなんと20年後、彼らと同様に房総の洲崎沖で遭難し、やはり流された17人の船乗りたちが、伝馬船に乗ってこの島にやってきます。
この17人は帰国後に奉行所から口止めされたため、公的な記録には残っていないものの、どうも小笠原まで流されていたみたいです。
そこから伝馬船で鳥島まで来ること自体、根性だけでは無理だと思います。
弁才船ならともかく、伝馬船なんてとても外洋航海に耐えうる代物じゃござんせん。
この17人は帰国後に奉行所から口止めされたため、公的な記録には残っていないものの、どうも小笠原まで流されていたみたいです。
そこから伝馬船で鳥島まで来ること自体、根性だけでは無理だと思います。
弁才船ならともかく、伝馬船なんてとても外洋航海に耐えうる代物じゃござんせん。
上陸した鳥島で住人の三人を見かけた、後から来た船乗りたちは、ここはまさに鬼の住む鬼ヶ島かと思って逃げ出そうとしたみたいです。
20年のうちに、日に焼けて肌は赤黒く、髪は伸び放題、着衣はとうに無くなって、鳥の羽根を接いだものを着ていたとあっては、見てくれは秋田の「なまはげ」と同じだったはずでしょう。
何とかコミュニケーションをとり、これまでの経緯を話した結果、救助を待つより死んでもいいから伝馬船で海に漕ぎだして北上した方がましだという話になり、凪の日を見計らって出航し、ひたすら北東をめざしたそうです。
GPSはもちろん、羅針盤も六分儀も無い中で、勘だけを頼りに北東を目指すなど、自殺行為に等しいですね。
GPSはもちろん、羅針盤も六分儀も無い中で、勘だけを頼りに北東を目指すなど、自殺行為に等しいですね。
それでも20人を乗せた伝馬船は、奇跡的に八丈島にたどり着きました。
そして、役人の取り調べを受けた後、公儀の船で江戸へ送られました。
江戸では三人がときの将軍徳川吉宗に面会し、直々に事の顛末を言上する機会を与えられ、その後陸路東海道を西へ向かい、さいごに今切の渡しに乗ってここへ帰還したというわけです。
彼らが故郷を出てから21年が経っていました。
もう、ここまでくるとロビンソン・クルーソーというよりは、浦島太郎ですね。
じじつ、八丈島の取り調べでも、江戸での将軍拝謁でも、60歳を超えていた甚八と仁三郎はまともな会話が成立せず、もっぱら平三郎が話をしたそうです。
その平三郎も42歳。
今の感覚で言ったら60歳くらいの状態でしょう。
織田作之助先生の小説、「漂流」は、平三郎が側役人からの質問に答えて、吉宗に生還までの物語を話すスタイルで展開されます。
なかでも「無人島で20年もの間、お前は何を希望に生を繋いだのか」という質問にたいする答えがすこぶるふるっていました。
毎晩奥さんの「唇の上にあるほくろ」を思い浮かべて必ず帰ると自己に言い聞かせたというのです。
ロビンソン・クルーソーは信仰を支えにして生き抜いていましたが、日本人の感覚って案外こんなものじゃないかなと思います。
さて、平三郎さんは毎晩夢に見た奥さまと21年ぶりに再会できたのでしょうか。
故郷の土を踏みしめた彼に待ち受けていた運命とは?
この話の結末についてはネットにも出てこないので、興味のある方は本を読んでみてください。
私は、最終的に希望を失わなかったのは、三人の心に帰るべきふるさとがあったからだと思っています。
引き合いにだすのも申し訳ないのですが、何年か前に、某国に拉致監禁されていて、帰国された方のひとりが、直後にメモを書いていたではないですか。
「空も土地も木も私にささやく。『お帰りなさい、頑張ってきたね』」と。
あの言葉に、戻るべき場所との絆の深さを感じた人も、多かったと思います。
もうひとつは、同郷の人間が三人というのも大きかったのではないでしょうか。
子どものころの故郷の話って、かなりの力を与えてくれます。
(だから今の子どもにも、「戻るべきふるさと」を持つということは大切なことだと思うのですよ)
もうひとつは、同郷の人間が三人というのも大きかったのではないでしょうか。
子どものころの故郷の話って、かなりの力を与えてくれます。
(だから今の子どもにも、「戻るべきふるさと」を持つということは大切なことだと思うのですよ)
ああ、長い旅を説明するのに、長々とお話を続けてしまいました。
新居の関所の方に話を移します。
旧東海道の関所といえば、有名なのが箱根とここです。
箱根が山の関所なら、新居は海の関所といったところでしょうか。
今切れの渡船の管理はすべて新居宿側で行われ、舞阪宿側ではハンドリングできないようになっていました。
だから、すべての旅人は渡し船に乗ったらさいご、この関所を避けて通ることはできなかったのです。
とはいえ、関所があれば破ろうとする者もいたわけで、お金をつかませて漁船をチャーターして浜名湖を渡ろうとか、夜陰に紛れて船を盗んで渡ってしまおうとか、そういう輩が出てきてもおかしくはありません。
こういう行為を防止するため、浜名湖の漁師に対し、すべての船を登録制にして管理し、さらには沿岸の住民の間に監視組織を整えたそうです。
でも、このことは浜名湖内と付近の沿岸漁業に多大な負担をもたらしたのだそうです。
箱根関所では、道に迷ったことにして「藪入り」としてしまい、実際につかまって処罰を受けたのは5件6人と意外に少なかったことはお伝えしました。
新居関所で捕まって処刑された人が何人いたのかはわかりませんが、箱根と違ってごまかしがきかなかったことは確かみたいです。
なお、この関所は陸路をゆく旅人だけでなく、海路をゆく大鹿丸のような千石船に対しても、乗員と荷物を改める関所機能を有していました。
遠州灘を越えて今切口の西側にある今切湊に廻船が入港したら、積み荷は調べられ、上陸した船員はどこの宿に何日まで泊まるのか手形が発行され、それを守らないとやはり関所破り扱いになったそうです。
まぁ千石船の場合、沖合10㎞あたりを航走すれば、陸からは見えないわけで、すべての船を新居に寄せるというのは不可能だったと思います。
いまでも新居町駅から南東に1㎞行った場所にある新居弁天公園には、今切湊の碑があります。
また付近は三保の松原のような松林に囲まれた海水浴場があり、弁天島とは対照的にこじんまりした旅館や民宿が数軒並んでいます。
三保の松原の方は、清水湊の沿岸が工業化されてしまったため、むしろこちらの方が昔の松原の雰囲気を残していると思います。
旅行会社に勤めていたとき、このあたりに泊まる人なんてとんと聞いたことありませんでしたが、案外そういう場所の方が面白い旅ができます。
この夏ブロンプトンをつれて海水浴になどと考えている人はいかがでしょう。
あ、千石船(弁才船)の実物が見たいという方は、下記を参考にしてください。
・船の科学館(東京都江東区)
・小木民俗博物館(新潟県佐渡市)
大坂と青森にも展示施設はあったのですが、閉館してしまいました。
江戸時代の廻船は、とくに北前船について司馬先生の小説「菜の花の沖」に詳しいです。
今回は漂流の話が中心になってしまいました。
次回は関所から出て、宿場の中をご案内したいと思います。