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仲町通りにブロンプトンをつれて

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上野湯島にある仲町(なかちょう)通りは、江戸時代、江戸勤番の地方のお侍さんが参勤交代で田舎に帰るときに、家族に対してお土産を購入する、いわば今でいう銀座とか、八重洲口のデパートのような場所だったそうです。
その名残か、反物を扱う呉服屋さんだとか、組紐屋さんが今でも営業しています。
ここを舞台に、鈴木大拙先生が『禅と日本文化』の中の、「禅と茶道」において、その時代の茶人にまつわるエピソードを書かれていたので、今日はそのご紹介をしようと思います。
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すでに戦国の世が遠くなった江戸時代中期のこと。
土佐のお殿さまが参勤交代で江戸へ行く際に、茶の宗匠をお供に連れてゆこうと思い立ちました。
殿さまから「江戸を見せてやる」と誘われたものの、侍でもなく人付き合いも煩わしいと感じ、かつ賑やかな場所は苦手な彼は、何か面倒なことに巻き込まれる気がして頑なに固辞します。
けれども、ぜひとも随伴してほしいという藩主の頼みに根負けして、ついに江戸行きを承諾してしまいます。
藩主は江戸での滞在中、他の大名仲間に自分の茶の師匠を自慢したくて、かれをお供させようと躍起になっていたのでした。
 
仕方なく侍の格好をして、参勤交代の行列に加わって江戸に出てきた茶人でしたが、もともと静かな環境を好む穏やかな性格だったので、江戸に来ても大名屋敷から一歩も出ずに過ごしていました。
ところが、主君から一人で屋敷を出て江戸の街を見物してくるようにいわれ、渋々侍の姿をして上野の不忍池を訪れます。
石に腰かけて池を眺めていると、あまり風体のよくない浪人から、「失礼ですが、貴殿は土佐のお侍さまとお見受けします。つきましては、一手合わせてお手並みを拝見つかまつりたい。」と剣の試合を申し込まれてしまいます。
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茶人はこういうゴタゴタに巻き込まれたくないから、都会に出てくるのを躊躇していたわけです。
けれども江戸の浪人から見れば、侍の格好をしていても侍ではないことは一目瞭然の彼は、まさにカモが鍋とネギを背負って現れたようなものだったのでしょう。
不忍の池など、江戸の観光スポットには、このようなおのぼりさんを脅してはお金を強請る愚連隊のような輩が、たむろしていたといいます。
 
「私は茶の湯の稽古で身を立てている者で、剣術の腕にはまったく自信がありません」と断ってみたものの、相手は最初からお金が目的ですから納得してもらえず、このままでは主君の名誉に傷がつくと判断した茶人は、覚悟を決めて申し込まれた試合を受けることにしました。
しかし、どうせ不逞浪人の手にかかって死ぬのならせめて最後は侍のように潔く死にたいと思い、ここに来るまでに見かけた剣術指南の道場にひと稽古つけてもらおうと考え、「主君に剣術試合の許可をもらったうえで、暇乞いをして戻ってくるので、それだけの時間が欲しい」と浪人に訴えました。
浪人は約束を破ったなら土佐藩の名に傷がつくことを念押ししたうえで承知します。
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さて、この茶の師匠が卑怯者なら一目散に土佐藩邸に帰って、それから殿さまが土佐へ帰るまで一歩も屋敷を出なかったと思うのです。
でも、彼は本当に途中見かけた剣術道場に直行して、「ここの主に会いたい」と願い出ました。
こういう場合はしかるべき人物からの紹介状が無いと取り次いでもらえないのですが、応対に出た剣術道場の門人は、彼のただならぬ様子に、道場主のもとへ彼を引き合わせることにしました。
そして道場主は茶の師匠が語る一部始終を黙って聞いたのち、こう言います。
「ここに来る人たちが私に訊くのは剣の扱い方であって、貴殿のような侍らしい死に方を尋ねてくる人には初めて出会いました。しかし、これも何かの縁でしょう。御茶人とのことですから、ぜひ手前のために一服点てていただきたい。」
 
茶人は人生でお茶を点てるのもこれが最後の機会だと思うと、その先のことは全く忘れ、いまこの瞬間は目の前に座る道場主のためだけにと、心を尽くして準備をし、茶の湯の順序を無心でやり通したそうです。
剣術の師匠はこの茶人が無我の境地で茶の湯を点てている姿をじっと眺めていましたが、茶をすすめられた段で思わず膝を打って彼に心からの同感の意をあらわし、次のように指南をしました。
「その通りです。死に方などおぼえる必要はありません。無法な浪人のもとへ戻ったら、こうしなさい。まず、自分は茶を点てているのだと思うことです。そして丁重に挨拶をしたあとに遅参を詫びてから、あなたが今お茶の準備をした手順をことごとくなぞるのです。
羽織を脱いだら丁寧にたたんでその上に扇子を置き、鉢巻をして襷をかけ、袴の股立ちをとります(袴の両脇のスリットを腰ひもにはさんで、裾をあげること)。これで支度はできました。
つぎに刀を抜いて頭の上に高くあげたなら、闘うために目を閉じて心を鎮めるのです。相手の掛け声をきいたなら、頭上の刀を振り下ろすのです。おそらく勝負は相打ちに終わることでしょう。」
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茶人は礼を述べて不忍の池へ戻り、剣術の先生から教わった通りに浪人に相対しました。
はたして浪人は上段の構えをとって目を閉じる茶人に対し、全く打ちかかることができません。
やがて浪人の側が完全に戦意を失ってしまい、「参った。ご無礼をひらにご容赦願いたい」と叫んで平伏すると、一目散に駆け出してどこかへ消えてしまったそうです。
 
私は若いころ、こういう道歌めいた話が大嫌いでした。
この話の主人公もさっさと要領よく逃げてしまえばそれで済むことだと思っていたのです。
でも、ひとつの道を究めるということは、あらゆる世界に通じるものがあると今では思っています。
新入社員のころ、一生懸命仕事をして命じられたことをやり通したのに、上司から「きれいにできているけれど魂が入っていない」と言われたことを思い出しました。
マザー・テレサの言葉にも、「上手にやろうとしたり、要領よくこなそうとしたりするよりも、自分がその仕事を喜んでできたかどうかが大事なのだ」という言葉がありました。
 
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今仲町通りは残念なことに、「客引きやぼったくりによる不正行為に注意してください」という音声案内が、朝から繰り返し流されています。
しかし旅人としては、「いつどんな場所で行き倒れになっても、旅人として死ねればそれで本望」と思っていれば、周囲の雑音は気にならなくなるのかもしれませんね。
そういう意味では、教会でミサに出席したり、神社仏閣で拝礼するのも、あらゆることに対する心構えを訓練しているのかもしれないと思うようになりました。
私も、そんな気持ちで人生のうちに、もっともっと旅を究めたいと思うのでした。
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