大橋屋さんの前から、藤川宿へ向けて西へ向かいます。
80m先の左側に豊川市の設置した休憩施設「お休み処よらまいかん」(34.856973, 137.306638)があります。
(http://www.toyokawa-map.net/kanko/yoramaikan.php)
旅籠の建物を建築様式から再現した休息施設です。
これからは、こういう形でしか保存がきかなくなってゆくのでしょう。
ちょうど裏手には豊川市立音羽図書館(34.856927, 137.305731)があります。
(http://libweb.lib.city.toyokawa.aichi.jp/)
私は時間があわなくて立ち寄ったことないのですが、地元の研究者がまとめた赤坂宿や御油宿の歴史と文化に関する蔵書が豊富なので、機会があったら立ち寄ってみたいと思っています。
図書館ってあまり交通の便がよいとはいえない場所にあることが多いと思いませんか。
でも、ブロンプトンを持っていると地方の図書館でも気軽に行けるようになります。
駐輪場所は必ずあるし、最近の図書館は閲覧室や喫茶コーナーが充実している場合があります。
運がよければこうしたところの司書さんが、地域の生き字引だったりもして、お話をきけたり情報をもらえたりもします。
もちろん利用者として行く限り、アポなしでも嫌な顔をされることはありません。
図書館はもちろん地域の人のためにあるのですが、旅のお人が利用してはいけないという道理はございません。
天気の悪い日にブロンプトンに乗れない場合など、地方の図書館の分館へ入り浸って、郷土資料やかなり前に絶版になったその地域の出版社発行の本を読み漁るのも楽しいものです。
そういう書籍は一点ものなので、たいがい閉架で貸出不可、閲覧は館内でという場合が多いと思われます。
そういう意味で読書好きにとって、地方の図書館は隠れたお宝の山だったりします。
ただ、今の世の中スマホからでも蔵書検索できますので、お目当ての資料を旅行前に探しておくこともできます。
それらの本には一般の書籍には出てこないトピックが書いてあったりしますからね。
そして大事な所だけコピーして宿に持ち帰り、炬燵に入りながらノートパソコンで要点をまとめていると、素人でも司馬先生気分が味わえます。
(いつか横浜にてそちらの話題についても書きたいと思います)
「よらまいかん」からおよそ300mで宮路山への道標が道路上に大きく出ています。
山の絵に紅葉だか楓をあしらったデザインです。
宮路山(34.848505, 137.290723)は御油から赤坂の際に話題にしましたが、第41代の女帝、持統天皇(645-703)の行幸伝説のある山です。
持統天皇のお父さんは、大化の改新でクーデターを主導した中大兄皇子(第38代天智天皇)で、旦那さんが壬申の乱の首謀者、大海人皇子(第40代の天武天皇)、息子の嫁が第43代元明天皇で、お孫さんが大宝律令を制定し、奈良大仏を発願したことで有名な第45代聖武天皇です。
この辺ややこしいですが、持統天皇は壬申の乱の際には夫とともに尾張国まで逃れていて、晩年にそのときに功績のあったお隣の三河の国人衆をねぎらうために、旅に出たとあります。
ともかくも、奈良に都があった時代に天皇がここまで来るというのは、事実かどうかはともかくよほどのことだったのでしょう。
そんないわれから、宮路山にはたくさんの歌が詠まれています。
「宮路の山といふ所越ゆるほど 十月つごもりなるに 紅葉散らで盛りなり 嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山 まだもみぢ葉の散らで残れる」(菅原孝標女、更級日記)
「秋来てぞ見るべかりけり赤坂の 紅葉の色も月の光も」(藤原盛忠)
「外山なる花はさながら赤坂の 名をあらわして咲くつつじ哉」(参議為相卿)
旧東海道から見る限り、そんなに特徴のある山には見えませんが、今でも春のツツジと秋の紅葉は有名です。
山頂ちかくまで車道が通じているせいか、気軽にのぼれる山です。
下から歩いて登ってもおよそ1時間で山頂にたどり着け、そこには「宮路山聖蹟」と彫られた石の記念碑があるそうです。
旧東海道はゆっくりと音羽川に沿って西へのぼってゆきます。
赤坂宿の西の出入口(34.858934, 137.304590)は、杉森八幡宮の鳥居のすぐ先右側にあります。
音羽中学校を右にみながら比較的直線の続く道を西へ向かうと、八王子橋(34.865893,137.294288)で音羽川を渡った後に、すぐ陸橋下をくぐります。
上の道は「三河オレンジロード」という愛称をもつ音羽蒲郡道路です。
東名高速道路の音羽蒲郡インターチェンジと、蒲郡市内を結ぶかつての自動車専用道路で、いまは歩道がついているので、自転車も走行できます。
ところで「蒲郡」(がまごおり)という地名は面白い響きをもっていますよね。
蒲形という荘園の名前と西郡という地名が合わさって、その名前になったようです。
前にも説明した通り、旧東海道は国道1号線や東名高速、名鉄線とともに、狭隘な山の谷を抜けているのですが、東海道本線や東海道新幹線は山を越えた海沿いを走って蒲郡の街中を抜け、三ヶ根山の麓をすり抜けるようにして岡崎平野へ抜けています。
自分が子どもの頃は蒲郡の港と伊良湖岬、鳥羽を結ぶ高速船やフェリーの便がありまして、お伊勢参りのあとは鳥羽から船でこちらへ渡れば、名古屋をショートカットして東京方面へ帰れるので便利でした。
なお、音羽という地名は女性的で美しい響きですが、こちらの由来になっている音羽川の語源は不明です。
さて、音羽蒲郡道路の下をくぐると、230m先の左側に長沢一里塚跡の標柱が立っていて、さらに90mほどで右側に長沢小学校(34.868301, 137.290407)が見えてきます。
この場所は、戦国時代に長沢城というお城が築かれていました。
家康から数えて6代前の松平信光の時代(1458年)のことで、西三河と東三河の境目にあたる重要な地点で、東の今川氏と西の松平氏がこの辺りを境にせめぎあっていたそうです。
今川といえば名門、松平といえば土着の豪族というイメージですが、まだ織田信長による尾張・美濃統一よりもずっと前の時代のことですから、泥臭い勢力争いを繰り広げていたのでしょう。
自分も東から西へ向かっているので、豊橋方面から攻め上ってきた今川勢の気持ちになると、こんな山が両側から迫った場所に城をつくられて待ち構えられたのでは、容易に突破できなかったろうと思います。
ここまで朝に新幹線で浜松駅に着いてからずっと走って参りましたが、冬のため西風が強いことと2泊分の荷物を詰めたフロントバッグを取り付けながらの走行という状況で、16時半をまわって坂をのぼるのがかなりきつくなってきました。
冬の日はつるべ落としとはよく言ったもので、山間のこの辺りは山の向こうに陽が沈むと、急速に冷えてきます。
本当はこの先の峠を越え、本宿の駅まで行ってから電車に乗って名古屋へ向かいたかったのですが、相方のDANさんが限界とのことで、長沢小学校の先で旧東海道の旅6日目をいったん終了することになりました。
私はどうしても、「本宿まで行った方があそこは急行停車駅だから明日朝に戻るのも楽だし…」と旅程管理の立場から先へ先へとゆこうとするのですが、同行者がいる場合は無理のないスケジューリングを心掛けねばなりません。
とくに今回は名古屋の駅近くに2泊して、中日に岡崎から濃尾平野を突っ切り、3日目に三重県に入って鈴鹿峠までの距離を詰めておきたいと考えていました。
けれども冬の三河は西へ向かう際に向かい風となる季節風が強く、かなり体感温度が低いことがこの日一日で良く分かりました。
また、冬場に東海道を西進する場合は、夏場とは別の意味で荷物をできるだけ少なくして身軽になり、余計なことで体力を消耗しないようにしなければならないとも感じました。
ということで長沢小学校の370mさきで旧東海道から右に折れ、国道1号線を横断して名電長沢駅という無人駅から電車に乗り、名古屋駅近くに予約した宿に引き上げます。
この日はホテルの部屋に入ってユニットバスのお風呂に長時間浸かっても、容易に体が温まらなかったことをよく覚えています。
翌日朝、改めて名電長沢駅に戻ることになりましたので、次回はこの長沢小学校付近から旅を続けたいと思います。