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TY07自由が丘駅(その1)

自由が丘は現在の東横線(渋谷~横浜)の中間駅のうち、田園調布に次ぐ全国区で有名な駅ではないでしょうか。
英語でいえば“Liberty Hill”ですか、かっこいいですね。
(今や駅から北方向に坂をのぼった先の八雲に、そういう名前のスポーツクラブがあるそうです)
もっとも子どもの頃から東横線を利用している自分は、ずっと「じゅうがおか」と発音していましたけれども。
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イメージ 1
駅周辺は小田急線の下北沢同様、やたらごちゃごちゃした街に、洒落たお店が散在します。
しかし、石川達三先生のエッセイなどには昭和30年代もいまと同じような雰囲気の街の様子が描写されているそうです。
ずっと以前からだったのですね。
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イメージ 2
(記念事業でガード下に掲げられていた昭和36年当時の駅前―なるほど雑然としています。ただ、手前に映っている桜の枝が気になります)

駅前には広場があり、真ん中に「あおぞら」と題された自由の女神像があります。
じつは自由が丘は戦前にいったん商店街などが整っていたところ、第二次世界大戦の空襲で焼け野原になってしまいました。
戦後の復興にあたって、元から住んでいる商店街、住民の人たちの間に、駅前に広場を設けるべきかどうか、大論争があったようです。
結局、ヨーロッパの街にあるような広場をつくるということになったらしいのですが、当時は駅前広場を設置すること自体、かなり進歩的な発想だったようです。
ただ、現在は単なる駅前ロータリーになりさがっているのは残念です。
ヨーロッパのような広場をつくるなら、四角を建物で閉じて道を塞ぎ、車の出入りを完全にシャットアウトしなければなりません。
そんな広場がいつ日本にできるだろうかなどと考えてしまいます。
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イメージ 3
(文庫本が賃貸仲介に、洋菓子がダロワイヨに…時代を感じます。ここ不二屋さんと不二家さんなのですねぇ)

歴史の方に話題を移します。
その昔、東横線が東京横浜電鉄という名前で渋谷と神奈川(現在の旧東海道青木橋付近)の間を全通させた1927年(昭和2年)当時、この一帯は碑衾村(ひぶすまむら)大字衾字矢畑という住所でした。
だから、600m西にある浄真寺の通称から駅も「九品仏前」と名付けられたそうです。
碑衾は碑文谷の碑と衾を併せた村名です。
江戸時代は現在の環七が走る尾根から南の一帯は、衾村と呼ばれていたそうです。
前回ご紹介した「衾の茶屋」もそこからきています。
自由が丘に比べてなんともさえない名前ですが、「衾」という地名の由来には諸説あります。

・民間信仰の「塞坐大神(ふせぎますおおかみ)」の「フセギマス」が転訛した
・古くから馬の飼料「麩(ふすま)」の産地として有名だった
・湿地に馬が足を踏み入れた状況を「伏馬」と呼んだことから
・呑川の支流と支流の間から「ハザマ」が転訛した
・丘陵が波のように並ぶ付近の地形が「衾(掛け布団)」の様子に似ている
(目黒区の地名由来より)
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イメージ 4
塞坐大神とは、すごい名前の神さまです。
調べると古事記に出てくる「塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおほかみ)らしく、あの世の出入り口に立ち塞がる神さまのようです。
よく死後の世界体験などに出てくる「あなたはまだ早い」と言う役の神さまとか閻魔大王の類でしょうかね。
麩とは、小麦から小麦粉を精製する際に出る副産物で、牛が好むことから今でも飼料として利用されています。
この辺りは丘陵が多かったから、水の便が悪い場所は麦をつくっていたのかもしれません。
現在東横線と直通運転するようになった東武東上線の、直通電車が行き着く森林公園駅よりももっと先に「男衾(おぶすま)」(難読駅名のひとつ)という駅があるのですが、あの「衾」も何か関係しているのでしょうか。
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 (「自由ヶ丘」表記は昭和40年までですから、少なくともそれ以前の住居表示です)

さて、駅設置の3年後に現在も高等学校として続く自由ヶ丘学園が開校しました。
私は、大井町線九品仏駅開設に伴って、学校の名前から「自由ヶ丘駅」に改名したかと思いきや、学校の開校よりも改名の方が先でした。
自由ヶ丘学園は、創立者の手塚岸衛(てづか きしえ1880-1936)が提唱した自由主義教育の理念に基づいています。
自由主義教育とは、19世紀末にイギリスではじまった教育改革運動(新教育運動)が、日本に大正自由主義教育運動として輸入された、そのうちの一部です。
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(児童中心主義の名著エレン・ケイ著「児童の世紀」)

その名前だけきくと、自由奔放な教育のようにとられる可能性がありますが、もともとは教師から児童への一方的な教授による知識の注入に対する反省に立脚し、子どもの側の自主性、主体性を重んじる子ども中心の教育をいいます。
古くはルソーやペスタロッチ、フレーベルの思想を引き継ぎ、その後アメリカでデューイによってプラグマティズムのもと、進歩主義的教育運動として展開されたので、第二次世界大戦後日本の教育の源流と言ってもよい普遍的な考えです。
なお、羽仁もと子夫妻の創立した「自由学園」と混同される向きもありますが、もとは同じ主義ながらあちらは東久留米市にある全く別個の学校です。
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(自由ヶ丘学園―高等学校のみの男子校です)

当然自由主義教育から自由ヶ丘と名付けたのかと思いきや、違いました。
学校の創立は昭和5年です。
それに先立つこと2年前の昭和33月に、舞踏家の石井漠がここに近代舞踊の研究所を開設しました。
モダンダンスですから、名前も洒落たものにしたいのですが、碑衾とか谷畑とか、どうも野暮ったくていけません。
そこで地主と相談のうえ、この地を「自由ヶ丘」と呼ぶことに決めて、研究所の名前も「自由ヶ丘石井漠舞踏研究所」としました。
駅はこの既成事実にのって昭和4年に名前を自由ヶ丘駅とし、自由ヶ丘学園の開校はその翌年になります。
「自由ヶ丘」という地名は、一人の人間の思い付きだったのです。
なお、住所が自由ヶ丘に変わったのは、ずっと後の昭和10年で、「自由丘」から「自由丘」に変わったのは昭和40年(駅名は41年)でした。(つづく)
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(かつて自由が丘にあった英国紅茶専門店)

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