さてさて、赤坂宿もまた御油宿と同じく歓楽の宿場なのです。
ここもまた、遊女が格子の向こうから、「ねえねえ、そこの旅のお方、泊まってゆきなさいな。座敷はきれいで相宿もありません。」と呼ぶ声がうるさくて、物音もかき消えてしまうほどでした。
さては化け狐の正体とは彼女たちか…と江戸時代の紀行文にもあるそうです。
女性が髪に挿す笄(こうがい)も、ここから西は長くなっていったそうで、短い江戸とは趣が変わったようです。
前回も触れましたが、現代と違い情報が人の歩く速度でしか伝わらない時代、旅人が遊女と夜をともにするのも、ひとつの情報伝播だったと思います。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」には江戸期における西日本の若者宿における夜這いの話題が出てきます。
今の価値観でいえばけしからぬ話ということになるのでしょうが、その時代は村落共同体の血統を濃くしないために、その共同体で産まれた子どもは、父親が誰かを詮索せず、その共同体全体の子どもとして皆で育てたという記述がありました。
これを風紀紊乱とは呼べませんよね。
それは地域的なこととしても、あとに出てきますが平安貴族の生活なんて今の価値観ではかったら乱れに乱れています。
なお、江戸中期までは「不倫」という概念が庶民のなかに存在しなかったという説もあります。
そこからすると、大阪から関門海峡をまわり、浦々を巡って遠く奥州の日本海側へ物資を運ぶ船乗りも、また、街道を往き来する旅人たちも、情報とともに血のつながりを濃くせずに開いて保つための役割が社会の中にあったのではないかと推測します。
もちろん、遊女は性の道具にされ、病気や堕胎などで命を落としていて、文字通り「苦界に身を沈める」生活だったわけですから、とても全面的に肯定はできないのですが、だからといって今の価値観でもって頭から全否定もできないと思うのです。
江戸時代の旅には、現代の旅のようにたんに「旅先で出会った異性が美しく見える」なんて暢気なものだけではなかったでしょうから。
一の橋(34.852224, 137.311101)を渡って200mほど行くと、左側に関川神社(34.854319, 137.309735)があります。
鳥居脇には芭蕉の「夏の月 御油より出でて 赤坂や」の句碑があります。
この句には、両宿間の距離の短さを、夏の月の出入りの時間的な短さとかけているとか、おぼろ月がすぐに赤くなって沈む様子を宿場の名前にかけているといわれています。
もっと踏み込んで、遊女遊びのはかなさを歌っているという解釈もあります。
まぁ、そういう意味も含めているのでしょうが、この先で紹介する古歌ともかけていると思います。
関川神社から70mもゆくと、左に郵便局があり、そのさらに先には長福寺(34.854980, 137.307775)の入口があります。
ここは力寿姫のお墓があるお寺です。
寺の伝承によれば、平安中期に京から三河に国司としてくだった大江定基が、この地の長者の娘である力寿姫と恋に落ち、若い二人は新居を構えて仲良く暮らしていたところ、定基の任期が満了して帰京する折に、別れを悲しんで姫が自殺したという話になっています。
離別がつらくって自殺って、三島沼津間でも聞いたような話です。
そんなことしたら、今生の別れになってしまうではありませんか・・・と思いつつも、それは通信や交通の発達した現代の価値観で推し量っているのでした。
大江定基はのちに出家して寂照という歌詠みの僧になります。
その寂照の逸話のうち、三河の国に赴任した折、妻と離縁して京から連れて行った女性(力寿姫という説もあり)が当地で死亡し、悲しみのあまり埋葬せずに添い寝していた(おいおい)というくだりが「今鏡」にあるのです。
数日たって女性の亡骸にキスしたところ、さすがに死臭のひどさに閉口して埋葬したというホラーな内容です。
何だか牡丹灯籠の新三郎みたいですな。
前の話と後の話では随分と定基のイメージが違いますが、遊里ではこういった伝承は珍しくありません。
おそらくは実際の出来事を昔の有名人にかぶせてしまったのでしょうね。
大江さんもお姫さまもお気の毒に。
長福寺入口から40mさきの左側が松平彦十郎家本陣跡(34.855735, 137.308189)、その20mさきが、角に昔の宿場の並びを図示した広場のある十字路で、ここが今も昔も変わらぬ赤坂宿の中心となる赤坂紅里交差点(34.855902, 137.308033)です。
「あかさかべにさと」って、赤に紅ですか。
これまたすごい名前ですね。
右へ行くと国道を渡って名電赤坂駅で、左へ行くと宮路山への中上級者向けの登山道です。
なお、御油宿のようにこちらには道路の鍵形が無く、一本道の両側に古い建物が残っているので、どちらかといえば昔の面影があります。
交差点のすぐ先右側に木工民芸品を売る尾崎屋さん(34.855902,137.308033)があります。
その向かいには、浄泉寺(34.855662, 137.306979)の入口があります。
お寺の境内には大きなソテツがあり、これが広重の絵に描かれた樹ということになっています。
しかし、この樹がどの旅籠にあったものかは、はっきりしません。
ただ、これまで見てきて、旅籠はどこも同じような作りだったので、必ず中庭があって、観賞用にこうした樹があったのだと思います。
交差点から80m先の左側が昨年(2015年)の2月に営業を終了した大旅籠の大橋屋さん(34.856351,137.307350)です。
(http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/39054578.html)
旧東海道中泊まりたい宿ナンバーワンだったのに、惜しいことです。
今思えば質問しておけばよかったと後悔しているのですが、大橋屋さんの二階の両脇にある戸袋の外側にも、遊女の浮世絵がはめ込まれていました。
あの建物の中に、往時を偲ぶ艶っぽいものは見ませんでしたが、他のどこかにしまってあったのかもしれません。
ちょっと長くなってしまいましたので、次回はこの赤坂宿の大橋屋さん前から、次の藤川宿へと向かいたいと思います。
旧東海道ルート図 (二川駅~本宿駅入口)