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『世に棲む日日』から吉田松陰・江戸周囲の足跡にブロンプトンをつれて(その9)

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下田での渡航失敗の跡、萩へ送り返されて囚人の身になっていた吉田松陰が出獄を許されたのは、下田渡海事件の翌年、1855年の暮れでした。
1856年の3月に実家で蟄居している部屋にて教授を開始し、これが叔父から松下村塾を引き継いだ形になりました。
松下村塾と言っても、引き継いだそれは萩・松本村の寺子屋です。
そこに1856年から58年にかけて様々な若者が集まり、やがては政治塾のようになって幕府老中の暗殺を謀議し、武器貸し出しを藩に願い出たところからそれが発覚し、185812月に、吉田松陰は再び萩の野山獄へつながれます。
獄中からも手紙で幕閣殺害実行を促す松陰に対し、弟子たちがこれを諌め、松陰から絶交を宣言されてしまうのは、有名な話ですよね。
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(長州藩邸のあった日比谷公園)

弟子たちの中には、のちの世に有名になる久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などがいるのですが、伊藤は使い走りのような存在で、山県は松陰が再投獄される2か月前の入門ですから、それほど感化されていないらしいです。
実際伊藤公は「自分のことを村塾出身だと言ってもらいたくない」なんて晩年まで漏らしていたそうです。
一説によると、松陰先生が自分を他の先生に紹介する書状について、どんな褒め言葉が書いてあるか(松陰はとにかくほめ上手でした)と期待して盗み見たところ、一言「周旋が得意になりそう」とだけ書いてあって、がっかりしたところから、師を恨んでいたらしいのです。
それに対して、久坂、高杉をはじめ戊辰戦争終結までに横死した吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎などは、松陰の死後にその思想を体現し実践しようとした秀才でした。
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(日比谷公園の紅葉)

吉田松陰は幕府の権威を否定して、天皇中心の国家を唱え、日本周辺地域への支配地域・勢力拡大を主張したため、明治以降の国家運営に大きな影響を及ぼしたといわれています。
でも一方で草莽崛起の思想が先鋭化して、「ナポレオンを起こして自由を唱えねばおさまらない」とか「もはや天長様もいらない」などと言ってしまうあたり、極左テロリストの革命家にも見えてしまいます。
また、自分の思想を通すためには、幕府老中の殺害も厭わないあたり、もともとの穏やかな性格とどう折り合い着けていたのか不思議で仕方ありません。
まぁ、彼の死に対する姿勢は、自らが処刑される際に明らかになりますけれども。
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(和田倉噴水公園 ここは和田倉門内です)

そんな吉田松陰が安政の大獄で摘発された梅田雲浜との関係を幕府から疑われ、江戸に送られるのは1859年の5月から6月にかけてでした。
そして7月に入ると和田倉門外に設置された評定所の白洲で、吟味(取り調べ)が行われました。
『世に棲む日日』によると、座敷に並んだ取調官は五人。
寺社奉行、大目付、南町奉行、北町奉行など、当時としても異例のオールキャストでした。
テレビなどでおなじみの時代劇では、奉行が被疑者に直接尋問を行いますが、実際は吟味役という縁側の上に座っている役人が質問し、白洲上の被疑者がそれに答え、取調官は一言も発せず座っているだけだそうです。
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(和田倉門交差点にて。評定所は門外にあったといいますから、丸ビルや新丸ビルの位置にあったかもしれません)

そこで吉田松陰は吟味役の役人から梅田雲浜との関係や、共同謀議の有無を執拗に問い質されます。
面識はあっても気心が通じているわけでもない相手と、大事を謀ったりはしないと言い張る松陰に、吟味役は「お前の志は梅田などと違って高いはず。その内容をここで披露してはくれないか」と罠をかけられるのです。
そこで純粋な松陰先生、「人を疑って失敗するくらいなら、人を信じて失敗する方がいい」と考え、日本がいかに危機的状況にあるかを説きはじめ、そのために、最終的な手段として「死罪にあたる罪を二つ企てた」と自分から話してしまうのです。
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(ご存知、桜田門外)

ひとつは討幕派の公家を長州へ招こうとしたこと、もうひとつは、「御老中間部下総守さまを京に待ち伏せるという秘謀を企てたこと」とふたつの未遂罪を訊かれもしないのに答えてしまい、後者について「待ち伏せて何をする気だったのか」と問われたところでようやく誘導尋問にひっかかったと気付いたそうです。
そこで松陰先生、ここだけは巻き添えになる弟子たちを思いやって「詰るつもりでした」と答えるのみでした。
正直もここまでくると一徹を通り越して馬鹿に及んでいますが、吟味役にとっては松陰の言い訳などどうでも良く、幕府老中殺害未遂犯としてその日の審問を打ち切って、ただちに小伝馬町の牢に放り込みました。
小伝馬町老屋敷跡は地下鉄日比谷線小伝馬町駅の5番出口を出て、少しだけ西に入った十思(じっし)公園(35.690977,139.777790)になります。
他にJRの神田駅とか新日本橋駅が近くにあります。
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(十思公園入口)

しかし元来が楽天家なのか、彼は牢に入っても奉行たちの同情的な表情からして命までは取られないだろうと楽観視していたようです。
続く取り調べも穏やかなので、未遂を自白しただけなので、遠島もなさそうだし、せいぜい他家預けか元のままだろうと手紙に書いていたそうです。
仮に死罪になったら有名になれるなどと冗談を書き、もし追放になら秘策があるなどとも書いたらしいですから、今度こそ海外に行くつもりだったのかもしれません。
それを伝え聞いた高杉をはじめとする弟子たちは、先生もそのうち萩に帰ってくるだろうなどと呑気に構えていました。
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(公園内。江戸時代にあった時の鐘を記念して、鐘楼があります)

ところが、10月に入ってしばらくすると、安政の大獄で曳かれた志士たちが次々と処刑されているという情報が獄舎にも入ってくるようになりました。
そして1016日に行われた取り調べを境に、「とてもではないが、生きていられそうにない」と急転直下、松陰先生は生きることを諦めてしまいます。
一説によると、取り調べにあたった奉行たちの間では遠島でまとまっていたらしいのですが、大獄という弾圧を指揮した大老井伊直弼が、厳刑に処するよう決めていたとか。
大獄で苛烈なProsector(検察官)役を演じた井伊大老はおよそ5か月後の18603月、桜田門外の変で殺害されるのですが、このあたりの歴史はもうテロの応酬です。
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(身はたとい 武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし 大和魂)

さて、吉田松陰の生涯を思う時、この生を諦めた1016日から処刑される27日までの12日間が、文筆家としてもっとも冴えわたって輝いていた時期だと浪馬は思うのです。
それまでのちぐはぐな印象が、この段階になって消滅してしまい、静止してしまった感じです。
そこで書かれた文章には、単純に死を覚悟した以上の、何かこれまで精一杯生きてみたから悔いはないし、肉体が滅んでも霊性は生き続けると確信しているような雰囲気があります。
その話は長くなるので次回にするとして、今回は司馬先生が小説に描いた吉田松陰の最期をご紹介して今回は終わりにしましょう。
なお、処刑場所は十思公園と路地を隔ててお向かいの、大安楽寺です。
安政61027日(西暦18591121日)、白洲で斬首による死罪を宣告された松陰先生は、そのまま仕置き場(処刑場へ)曳き立てられました。
『世に棲む日日』には直接の描写はありません。
代々首切り役人の家に伝わる江戸中期の思想家、山県大弐のもっとも見事な死をあげ、直接執行にあたった浅右衛門の「しかし、十月二十七日に斬った武士の最期が、それ以上に見事だった」という感想をひいたあと、「この日、江戸は見事な晴天で、富士がよく見えた」と簡潔に結んでいます。
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もし吉田松陰終焉の地、小伝馬町の十思公園に行ったのが秋から冬にかけての良く晴れた日で、富士山が眺められそうなら、東京駅の丸の内口までブロンプトンで走りましょう。
実質15分もかからないとおもいます。
東京駅の丸の内口の中央を背に、皇居和田倉門を正面に見て左側の丸ビル35階には、無料の展望フロアがあります。
平日でも日曜でも11時から開放されていて、富士山も良く見えますので、ここから江戸の昔、富士山を背にした江戸城を想像してみるのも面白いかもしれません。
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