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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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旧東海道へブロンプトンをつれて 30.舞阪宿から31新居宿へ

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前回のこと、毎度恒例になっている広重の五十三次を見ながら悩んでいました。
これはいったいどこからどの方角を眺めた風景だろうって。
彼の絵はデフォルメされているので、実際の風景と異なっているのは承知の上なのですが、それにしてもベースが分かりません。
富士山の配置からすると舞阪から北東の方角を向いているのではないかと推測してみたものの、そうすると海との位置関係がおかしいのです。
もしかしたらこれは海ではなくて全部浜名湖の湖面で、外海にある船の上から湖をのぞきこんでいるのかとも考えたのですが、こんどは建物がどこにも見当たりません。
広重が舞阪を訪れたとき、たまたま天気が悪くて景色の見通しが立たず、全部想像で描いたのでしょうかね。
舞阪近辺の方で心当たりのある方がいらっしゃったら教えていただきたいです。
イメージ 11
(こんなとんがった山はないのです)

旧東海道の旅は、今切れの渡し、すなわち舞阪宿側の船着場である北雁木
(34.685576,137.607707)から西へ向かいます。
前にも説明しましたが、浜名湖は琵琶湖と対比されて「遠津淡海」(とおつあわうみ)と呼ばれ、海とは川で結ばれている湖でした。
旅の初めにも触れたことですが、東京湾と同じく「縄文海進」により、海が沖に向かって幾度か後退したために、もともと入江だった浜名湖は完全に海とは縁の切れた湖になっていたそうです。
しかも、海とは高低差があったために、海水が湖に向かって川を遡上して流れ込むことはなく、島根県の宍道湖のような汽水湖ではなく、純粋な淡水湖だったそうです。
それが、1498(明応7)に発生した明応地震と、それを原因とする津波によって、海と湖を隔てていた砂堤が決壊して、現在のような地形になりました。
それから、東海道を旅する者は舞阪宿と新居宿の間は船で行き来するようになり、これが(いま切れたから)「今切れの渡し」と名付けられた所以です。
明応というと、徳川家康が五街道整備を行うおよそ100年前のことです。
京都では応仁の乱が終息し、関東では北条早雲が相模平定に乗り出していた頃です。
戦国時代の初期ですから、織田信長の岳父である斎藤道三が出生したころといえば、お分りになる方もいらっしゃるかもしれません。
イメージ 1
(左;北雁木 右;弁天橋)
 
北雁木から120mもすすむと弁天橋(34.687378, 137.606566)を渡ります。
左の海側には厳島神社のように海の中に鳥居が見えますが、これは本物の鳥居ではないそうです。
弁天島には弁天神社なるものはあるのですが、あの海中の大鳥居は神社とはまったく関係がなく、地元の商工会が観光の振興を目的として補助金で建てたのだとか。
宗教施設と結びつけるわけにもいかないので、その正式名称も「観光シンボルタワー」(34.686761,137.600966)というのだそうです。
うーん、それなら他にもお祀りするものがありそうな気もするのですが、明らかに鳥居にしか見えないものを建設してタワーとは…。
仮にあの鳥居が観音像とかキリスト像だったら、もっと問題になりそうです。
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(左;弁天橋から見る観光シンボルタワー 右;国道1号線との合流点)
 
弁天橋を渡ると弁天島です。
江戸時代の渡し船はこの島の北()側を通っていたそうです。
橋から120mほどで国道1号線と合流するのですが、その合流点の左()側に、小さく弁天神社(34.689019, 137.604297)があります。
なんでもここは昔、天橋立のような白砂の浜と松林が続く景勝地で、ある日ここに天女が舞い下り、村人たちは「お社を建てるから留まって欲しい」と懇願したのに、天女は駿河の三保の松原へ立ち去ってしまったのだそうです。
体よくフラれたわけですね。
その後、今切れの渡しの航海安全を祈願して、1707年(宝永6年)弁天神社が建立されました。
なかには正岡子規の句碑があります。
「天の川 浜名の橋の 十文字」
天の川と橋がクロスして十文字という意味でしょうか。
イメージ 2
(左;弁天神社 右;正岡子規句碑)
 
弁天島自体リゾート地のように大型ホテルが立ち並び、ここは夜空がきれいそうです。
JR弁天島駅(34.690184,137.603090)前を通り、中浜名橋を渡ります。
この橋は歩道が無いので、信号で道路の右側に渡って歩行者専用の緑道橋を渡ります。
渡ったところで再び信号を渡り返し、道路の左側歩道をゆきます。
橋を二つ渡ってもまだ弁天島のなかです。
このあたりは新弁天といって、やや埋め立て地のような趣です。
ところどころ和食屋さんやマンションの建つ国道をゆきます。
時間に余裕があり、空が美しい時には、中浜名橋の東詰手前にある海浜公園(34.690387,137.599893)に寄ってみましょう。
さきほど大型ホテルの陰で見えなかった海が眺められます。
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(左;JR弁天島駅 右;中浜名橋を渡る前に道路を右側へ渡ります)
 
東海道は「海」という字が入るためにさぞ海と縁が深いかと思いきや、現代はそうでもありません。
全く海が見えないということでもありませんが、昔の時代劇のように、白浜の松原の中をゆくなんてシーンは皆無ですし、大半は埋め立てで海が遠くなってしまっています。
これまでの場所でいえば、品川宿とか神奈川宿とかは昔は海が街道から家一軒裏手まで迫っていましたが、現代ははるか彼方へ後退してしまって見えません。
見えても運河の向こうに埋立地が見えるという具合です。
蒲原宿から由比宿、薩埵峠にかけても海は近いのですが、あいにく高低差もありますし、海岸沿いは東海道線の線路と国道一号線、それに東名高速道路に阻まれています。
自転車なら東名高速道路下の堤防までゆけますが、その向こうを覗いても青い駿河湾の手前には、テトラポットの山が積まれて風情なんてあったものではありません。
これから向かう宮と桑名(伊勢湾を舟で渡る乗船口と下船場所の宿場)も海が近いとはいえません。
そんななかで、舞阪宿からお隣の新居宿にかけては旧東海道中唯一、こうして海辺にまで出て海が見渡せる場所なのです。
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(左;海浜公園から見る浜名大橋 右;新弁天地区をゆく)
 
そして、三本目の西浜名橋(34.694004, 137.587003)を渡ります。
この橋もまた左側に歩道無しです。
仕方ないので信号を渡り右側へ寄ります。
浜名湖を渡る際、車道の左を走れば海が見えるのですが、国道1号線のしかも橋の上ということもあり、時間のいかんにかかわらず、かなり交通量があります。
もっとトラックやトレーラーが少なければ橋の上から朝日と海が眺められるのに、とても残念です。
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(左;西浜名大橋を渡る前に再度右側へ 右;西浜名大橋)
 
最初に歩いた時、西浜名橋を7時すぎに渡っていると、横のJRの鉄橋を立てつづけに三本の新幹線が追い抜いてゆきました。
最初の列車がいつも利用している新横浜6時始発のひかり493号、続いて間もなく品川6時始発ののぞみ99号、すぐに東京6時始発ののぞみ1号が続きます。
ドーンパープルだった空がオレンジ色から青空に変化してゆくときで、とても美しい空の下を歩いているときに、慌ただしく追い抜いてゆく新幹線を見送りながら、鈍行列車や徒歩の旅の方が本当は豊かじゃないかと思いました。
人生も同じで、ゆっくりといった方が途中で色々なものを見落とさずに済むのかもしれませんね。
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(左;旅人を追い抜いてゆく新幹線 右;橋の下にまわると、磯の香りがします)
 
西浜名大橋を渡れば、新居宿のある新居町に入ってきます。
徒歩の場合は橋を渡った直後にたもとの階段を下って橋の下の通路を使えば、道路の左側に復帰できるのですが、階段を上り下りせねばならないため、自転車はそのまま道路の右側を走ります。
こういう場合も「やむをえない場合」と認めてもらえるのでしょうね。
さらに600m、工場や大型スーパーの並ぶ面白くない国道1号線をゆくと、JR新居町駅(34.694154, 137.568678)前を過ぎます。
ここが浜松と豊橋の間のほぼ中間の駅になります。
この駅の北側には水路を挟んで大きな競艇場があり、新幹線の車窓からよく見えます。
駅前を通り過ぎて100mゆくと栄町交差点(34.693849, 137.566864)で国道1号線は左へ分かれてゆきますが、旧東海道はそのまま直進し国道301号線をゆきます。
イメージ 7
(JR新居町駅。もうこのあたりは道路右側を走らざるを得ません。なぜなら栄町交差点は歩道橋だからです)
 
栄町交差点から150mでレトロな浜名橋(34.694092, 137.563624)を渡ります。
右側の歩道には広重の絵がはめ込んであり、四隅は常夜灯風になっています。
その120m先右側が新居関所(34.694727,137.561323)です。
江戸時代は舞阪の北雁木を出た船は、この関所の敷地内に到着しました。
つまり船に乗ったら最後、関所の吟味からは逃れられないシステムになっていたのです。
箱根の関所同様に、新居関所の詮議もきびしいものでした。
特に女性は念入りに調べられるために、この関所を通らない浜名湖の北側を迂回する脇往還の本坂道を「姫街道」と呼んでいたことは、天竜川を渡った先の分岐点でお話しました。
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(浜名橋を渡るとがぜん宿場らしくなりますが、関所はもう少し先です)

関所は月曜日を除いた9時から17時は入館料を支払えば内部を見学できますので、時間のある方は見てゆきましょう。
ちなみに、旧東海道を80mほどいった左側にある、大旅籠だった紀伊国屋資料館の入館と共通券を購入すれば100円引きになります。
入ったら、何はともあれ江戸時代に船がついた場所へ行ってみましょう。
黒い柵板に囲まれた敷地内に船が横付けすると、50mさきに関所の建物がどんと構えており、間は広場になっていてとても逃げだせる雰囲気ではありません。
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(新居関所と船着場の遺構)


伊勢湾を渡る七里の渡し(宮の渡し)は日時を決めて「平成七里の渡し」として復活していますで、できれば今切れの渡しもどうにか復活してもらえないかと思います。
奥浜名湖の方では遊覧船も水上タクシーもあるから、湖西市と浜松市が協力すればできないことないのじゃないかな、なんて思います。
海苔、うなぎ、うなぎパイに旧東海道をからめて、浜名湖一周のサイクリングコースをつくったら面白そうです。
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次回はこの関所の中から新居宿を見て回ります。

旧東海道ルート図(浜松駅入口~二川駅前)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=1c0fa9a276c470f9763d5ca0e44aa1a0

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