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パール・バック著『母よ嘆くなかれ』伊藤隆二訳(Peal S. Buck “The Child Who Never Grew”)

皆さんは、健常者と障害者の境がどの辺にあると思いますか。
広辞苑で障害者を引くと「身体的障害、知的障害、精神障害があるため、日常生活、社会生活に相当な制限を受ける者」と出てきます。
では、何を以て障害というのでしょう。
同じく言葉をひくと「さわり、さまたげ、じゃま」などと出てきます。
私は健常者と呼ばれる人のうちにも、障害を抱えている人はたくさんいるし、いまなんの障害も感じていないとしても、ある場面(たとえば老化)になったら差し障りが出てくるということはいくらでもあるわけで、まして時間の感覚を含めると、人の一生のうちになんのさまたげも感じたことのない人など存在しないはずです。
そう考えると、自己の内や身近な人の抱えた障がい(「害」という言葉が嫌いなので、ひらきます)について、いろいろと考えてしまいます。
今日はそんなことを考えるきっかけになった本をご紹介します。
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学生時代、中国へ旅する前にパール・バックの『大地』を読みました。
(プラス、ヘディンの『さまよえる湖』だったかな。もちろん、両方とも訳本です)
そのときは、貧農の身から苦労して財を成した小説の主人公が、著者自身の投影であるとはまったく気が付きませんでした。
そして、かのノーベル賞受賞小説が、発達に障がいをもった娘をひとりで養うため、彼女が大人になった後も安心して暮らせるようお金が必要で書いた作品だったということも、この本を読むまで知りませんでした。
この本を読んだきっかけは、『大地』を読んだずっと後で、自分がよく読み返している本に繰り返し引用されていたのです。
 
大方の人は、障がいを持って生まれてきた子どもをもつ親になったり、その人たちの気持ちを斟酌したりするために本書を読むのだと思います。
原題は“The Child Who Never Grew ”つまり、『けっして成長することのない子ども』です。
内容からすると、いま時なら「から学んだこと」とか「に育ててもらった私」という言葉をお尻につけるのかもしれません。
パール・バックは自分のひとり娘が障がいを持っていると気づき、それを認めることができるようになるまで、どれほどの苦しみを味わい、自己と闘ってきたかを文章にしています。
そして、「なぜ私がこんな人生を与えられたのか」という悲しみを乗り越えてゆく過程を克明に綴っています。
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(ブロンプトンに乗ってから、何ヵ所か、タダで座って本が読める場所を知るようになりました)

著者は娘のための福祉施設を探すうちに、様ざまな指導者に出会うのですが、そこでこのような印象を述べています。
『指導者とは、生来親切で、愛情深く、直接手をくださなくても、子どもたちに規律を教えることのできる人でなくてはなりません。
その人が、高等教育を受けているか否かは、重要なことではないのです。
子どもの下に立つ人(子どもを本当に理解する人)でなければならないのです。
なぜかというと、その人の毎日のつとめは子どもに奉仕することなのですから。』
(パール・バック著『母よ嘆くなかれ』伊藤隆二訳 法政大学出版局より 以下『』内は同書からの引用)
 
驚くほどシスター渡辺和子の言葉と似ています。
これは福祉施設に限ったことではありませんから、これからお子さんのために学校を探すときのヒントにしてはいかがでしょうか。
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「感傷からではなく、長い経験からいわせてもらえば、子どもの魂と精神が不幸から解放されない限り、わたしたちはなに一つ子どもに教えることはできない。
幸福な子どもだけが、学ぶことができる」
「だれでも、その人にとって最もいいことは、その人が一番上手にできることであり、そのことをしていれば、自分も社会に役に立っていると感じることができる。
それが、幸福というものだ」
 
苦労して見つけた娘のための福祉施設の園長の言葉に、パール・バックは決して知能の発達することのない娘自身にとっての幸福とは何なのかを、自分も真剣に探ろうとします。
と同時に、自分の亡き後この子はどう生きるのだろうと心配の種だった娘から、数多くを学んでいる自分に気がつくのです。
彼女は忍耐と寛容、どんな人の精神であっても尊敬に値するという人としての平等、同じく与えられた権利、さらに何よりも「自分を低くすること」を、娘から教えてもらったといいます。
そして、人間は喜びからと同様に悲しみからも、健康からと同様に病気からも、利益からと同様にハンディキャップという不利益からも、おそらく前者からよりも後者からより多くを学ぶことができると述懐し、『人の魂は、十分に満たされた状態から最高水準に達することは滅多にありません。むしろ逆に、奪われれば奪われるほど、最高水準にむかってゆくものなのです。』と自己を顧みて感想を述べています。
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この辺に、経済的に豊かにはなっていっても、心は貧しくなってゆくことへのヒントがあるのかもしれません。
私は長く辛い旅の末に、「娘をどう学ばせるか」という悩みから「娘から何を学ぶか」へ転換をはかった著者をみていると、「人間は弱い存在であると同時に、その弱さゆえに強い存在である」という言葉を思い出します。
それにしても、この種の言葉に接するにつけ、「子どもに奉仕する」ことの本質とは、本当の意味での謙虚さとは何だろうと考え込んでしまいます。
くわえて、かつては自己の不用意な言動で、同じような境遇の人を傷つけてしまった出来事を思い出して、自分はまだまだ、他者から「低くすること」を教わらないといけない存在だとも思うのです。
これらことは、子どもが障がいをもっているとかいないとかにかかわらず、人と人との交わりにおいて大事なことだと思います。
 
最期の方にでてくる次の言葉は、パール・バックと同じように、障がいを持った子どもを授かって途方に暮れる親へ向けてと同時に、娘を遠ざけるばかりで、愛情を注ぐことのなかった夫をはじめ、すべての親へのメッセージだと思います。
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『あなたのお子さんが、あなたが望まれたとおりに、完全で、かつ健康な状態では生まれず、身体やこころの面で、あるいはその両方にハンディキャップを受けていたとしても、そのお子さんはまぎれもなくあなたのお子さんなのです。
そのことを決して忘れてはならないのです。
あなたのお子さんもまた、どんな人生を送るにしても、生きる権利と、幸福になる権利があるのです。
その幸福は、あなたが見つけ出してあげなければならないのです。
あなたのお子さんを誇りに思い、あるがままをそのままに受け入れてほしいのです。
無理解な人たちの言動や好奇の目には気をとめてはならないのです。
あなたのお子さんが存在していることはあなたにとっても、また他のすべての子どもたちにとっても意義のあることなのです。
 
あなたは今はわからないかもしれませんが、あなたのお子さんの存在の目的を果たし、お子さん共に生きる間に、必ず本当の喜びを見出すことになるのです。
さあ、頭を上げて、示された道を歩んで行きましょう。』

パール・バック女史の娘、キャロラインさんは、その当時は原因不明の発達障害とされたのですが、のちにフェニールケトン尿症という先天性の新陳代謝障害であることが分りました。
放置せずに生後一年以内から代謝異常を抑える治療を継続することで、今では患者も正常な発育を遂げることができるそうです。
日本では新生児8万人に1人の割合で発症するといわれていますが、原因が解明され、新生児にスクリーニングを行うことで、早期発見、早期治療に役立てているそうです。
その意味では、著者が親子で挑んだ病への戦いは、勝利で終わったといえるのではないでしょうか。
 
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(戦前から戦後まで、長い間多くの日本人との付き合いを通して得た、バック女史の日本人観を知りたい場合は、こちらの本をお勧めします)

なお、あらためて『大地』を拾い読みしてみると、昔読んだときには感じなかった、彼女の中国とそこへ住む人たちへの暖かい眼差しに気がつきました。
また、この本の中にほんのわずかですが、彼女が中国の内戦を避けて日本(長崎の雲仙だそうです)に避難していた時に、娘と二人で旅をした貧乏旅行の記述があり、それが今の来日外国人の印象とこれまたびっくりするほど一致していることも付言しておきます。


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