今回は祐天寺駅から学芸大学駅へ、東急東横線は高架上をちょうど駒沢通りとX字にクロスするように南下します。
といっても途中に坂道もなく、駅間の距離も1kmと、ブロンプトンならすぐそこの感覚です。
祐天寺駅東口を背にまっすぐ駒沢通りへ出て右折し、一つ目の交差点が祐天寺二丁目の信号です。
ここの交差点脇から細い暗渠を下流に向かってたどります。
最初は蛇崩川支流緑道と同じように、アパートの軒先をかすめるような道ですが、やがて緑道になり、くねくねと北東方向へ向かいます。
これが目黒川支流の谷戸川緑道です。
山手通りを信号付きの横断歩道で渡ると、最終的に目黒区民センターの裏あたりで目黒川に合流します。
(谷戸川緑道をさかのぼると、途中「この辺りは昔狭隘な渓谷だったかも」などと思える場所もあって、楽しいのです)
目黒駅方面から祐天寺や学芸大学へ向かう際は、目黒通りの大鳥神社交差点付近から、この谷戸川緑道を辿ると、急な坂道も無く、探検気分で走ることができます。
(ただし、蛇崩川支流緑道同様に、歩行者優先でお願いします)
都区部の建てこんだ街並みをブロンプトンで走るには、こうした緑道や暗渠となった河川支流の位置を覚えておくと大変便利なので、これからも折に触れてご紹介してゆきたいと思います。
祐天寺駅近くの東横線車窓からみてひときわ目立つのが日本聖公会の聖パウロ教会です。
聖公会はアングリカン・チャーチ(Anglican Church)、すなわちイングランド国教会のことです。
高校の時に世界史を選択した方なら、イングランド王ヘンリー8世(1509-1547)の離婚問題に端を発した国王とローマ教皇の争いは記憶にあると思います。
それがもとでローマ教会とイングランド国教会に分裂し、後者の流れを日本で汲むのが日本聖公会なのですが、源流は同じなのでカトリックと良く似ています。
(かわいい花に出会えるもの緑道の楽しみです)
たとえば、プロテスタント教会なら教会を管理運営する人は牧師ですが、カトリック・聖公会は司祭です。
実際に見聞きしたことはありませんが、カトリック教会でいう七つの秘跡(sacrament)も同じようにあるそうです。
ただ、カトリックの司祭は妻帯ができないのに対して、聖公会の司祭は結婚が可能です。
東京だと、東京タワーの足元にある聖アンデレ教会が有名です。
日曜の朝に通りかかると主日聖餐式(礼拝のこと)を行う司祭の姿をチラッと見たことがあるのですが、格好はカトリックの司祭と変わりませんでした。
(谷戸川をどんどんさかのぼってゆくと、いきなり駒沢通りの交差点に出ます)
この聖パウロ教会は、もともとは築地にあったそうです。
それが関東大震災によって聖堂が焼失したために、京橋木挽町へ移り、さらに戦災によって再び焼失したために、渋谷の宇田川町に移り、そして老朽化によって1973年にこの場所へ移転してきたそうです。
最初に築地に教会を開いたのが、聖公会の英国人宣教師J・バイパーさん。
この方は、横浜では有名なJ・C・ヘボンさんやN・ブラウンさん、S・R・ブラウンさん等とともに、聖書の翻訳作業をして、1880年に明治元訳と呼ばれる新約聖書を出した人です。
毎月第二金曜日の昼に、聖堂のパイプオルガンなどを使用したコンサートをやっているようですので、興味のある人はどうぞ。
(谷戸川暗渠の道筋)
パウロ教会の先に、お地蔵さんや庚申塔がまとめて立っています。
これが五本木庚申塔群です。
このあたりの地名を五本木といって、室町時代や鎌倉時代からの古い地名だそうです。
その名の通り、街道沿いにある五本の大樹からその名がついたそうです。
この前の道は鎌倉街道といわれ、明治の頃でもこの付近は鬱蒼とした森の中で、元気な若者が昼間でさえ通行を怖がったほど昼なお暗い場所だったそうです。
今からでは想像もつきませんね。
(聖パウロ教会 鐘楼上の十字架は東横線からもよく見えます)
ちょっときになったのですが、n本木という名前はあちこちにあります。
で、当然のごとくnの値が小さければ小さいほど、地名例も多いのですが、「四本木」だけは埼玉県日高市に1件しかないのです。
やはり数字の四は縁起が悪いので、地名としてもつけたがらないのかもしれませんね。
ちなみにその手の名で有名な東京都港区六本木の地名由来は諸説あってはっきりしません。
ただ、目黒区の五本木とは違って、ずっと後の江戸時代になって定着した地名のようです。
(五本木庚申塔)
東横線の線路は、その先で駒沢通りと交差しますので、ガードの脇を横断します。
駒沢通りは起点が地下鉄白金高輪駅近くの古川橋で、代官山から学芸大学までの間、ほぼ東横線に沿っています。
この先やや新玉川線寄りに寄ってゆき、駒沢オリンピック公園の中(そこだけ道幅が広くて立派に見える)を通った後、多摩美術大前で環状八号線とぶつかったところが終点になります。
車を運転する人にとっては、国道246号線や目黒通りの裏道的な存在です。
(東横線のガード下で駒沢通りを渡る)
駒沢通りを渡って学芸大学駅方面へ線路沿いにゆくと、鷹番という地名があらわれます。
鷹番は、このあたりに鷹狩りをする場所が設けられ、その番人が置かれたことからとか、鷹場が転じて鷹番になったとか、いずれにしても鷹狩りの狩場があったことは間違いないそうです。
江戸時代は戦争もおこらず、武士が惰弱になりがちだったので、定期的に軍事演習をする必要がありました。
生類憐みの令を出した綱吉の頃に一度廃止されたことがあったようですが、そのほかの期間は軍事演習の代替として将軍家はよく鷹狩りをしていたようです。
三宿通りから伸びる道を横断すると、学芸大学駅はすぐそこです。