さて、江戸留学を果たした松陰先生ですが、さまざまな塾を訪ね歩くもなかなかこれはという師匠に巡り合いません。
彼は純粋に人を信用するところがあるので、「この人こそ生涯の師だ」と思いこむのも早いのですが、「なんか違う」と相手に対する信頼についてのメッキが剥げるのもはやくて、「自分は江戸へ学問をしに出てきたのに、江戸での学問は食べてゆくための方便になり下がっている」という感想をもちました。
これは現代にも通じるお話で、学ぶことそのものと、職業、地位、財産、権力、名誉など、何かを得るために学ぶことは、たとえ表面的には同じ行為であっても、動機がまったく違うので同じ学問であっても似て非なるものだという考え方です。
(長州藩邸のあった日比谷公園)
こういう書き方をすると、必ず「そうはいっても有名な大学に入らなければ、その道を究めた先生に出会えないのだし、世間でいわれている良い職業に就かなければ、様ざまな経験をする機会も与えられないのだから、受験勉強は大事だ」と反論する人がいます。
私も基礎学力が無ければただの独りよがりになってしまいますから、そうした意見を否定することはしませんが、一方で「学ぶ楽しさ」について考えることも大切だと思います。
知識が増えてゆくことによって成績があがったり、ひとから認められたりすることも楽しみではあるけれども、そうしたことより、未知の世界に踏み込み、そこで心から驚くという楽しさを知らねば、本当の意味での学ぶ楽しさを見つけたことにならないのではないでしょうか。
旅とはまさに、その未知なる世界へ自ら切りこんでゆく行為に他なりません。
旅とはまさに、その未知なる世界へ自ら切りこんでゆく行為に他なりません。
だから、「何を目的に旅に出るの?」という質問が、旅人にとっては愚問であるように、「本を読まなきゃ」と思っている人は、読むこと自体の楽しさに気付かず、延々と「何かのための読書をし続けている人」ではないかとこの頃思います。
いや、青臭いことを書いて申し訳ありません。
自分もうっかりすると、つい目的と手段が顚倒してしまうことがあるので、気をつけねばいけません。
自分もうっかりすると、つい目的と手段が顚倒してしまうことがあるので、気をつけねばいけません。
(水道橋からお茶の水方向を望む)
さて、そんな松陰は、彼の生涯に大きな影響を及ぼす師匠の佐久間象山と出会います。
『世に棲む日々』によると、その出会いは穏当なものではなかったといいます。
その日、松陰は忙しく、神田三崎町にある自分が属する学派の塾に入門料を収め、それから手土産を買って深川(35.674725, 139.790830)にある佐久間象山の塾までゆきました。
今の地名でいえば、日比谷の藩邸を出て水道橋まで行って学費を払い込み、途中で手土産を探しながら隅田川を渡って門前仲町の近くまで歩いたということになります。
時期は初夏を思わせる暑い晩春のころで、長時間の歩行で着けている裃はヨレヨレになり、顔は汗と埃にまみれていたといいます。
(門仲の方へ行くのなら、永代橋を渡って行ったのでしょう。1698年からあったそうです)
悪い事に、佐久間象山は人一倍身だしなみにはうるさい人で、弟子の取次で松陰との対面早々、「お前は学問がしたいのか、学問したふりをして格好をつけたいのかどちらだ」と嫌味たっぷりの質問をぶつけ、松陰が「学問をしたいのです」と答えるや否や、『されば、入門も厳粛であるべきである。であるのに貴公のその容儀はなにか。なるほど裃はつけておるが、顔は垢面(こうめん)、頭は蓬頭(ほうとう)、もう一度出直して来い』(「世に棲む日々」司馬遼太郎著より)と怒鳴って追い返してしまいます。
松陰は仕方なく日比谷まで戻り、身なりを整えてからもう一度深川へ出向いたそうです。
ふふ、地下鉄が無くても自転車があれば、そんなに苦労せずに済んだかもしれませんね。
でも絵で見ると神経質そうな松陰先生も、ちょっと間が抜けたところがあって安心しました。
まぁ、現代でも皺のついた背広にヨレヨレのネクタイを締めて就職活動したら、いくら人物が良くてもお断りされてしまうでしょうしね。
しかしこの後、佐久間象山は松陰のことをかなり目にかけているようですから、象山もまた、人を身なりだけで判断する人ではなかったということになります。
そして、経緯はともかくこの出会いはのちに大きな意味をもつようになります。
(佐久間象山塾跡;(江東区永代1-14 )象山の塾というと、銀座の方が出てくると思いますが、松陰が江戸に出てきたころはこちらへ移っていました。電信機や大砲が置いてあったり、豚を飼っていたりしたのはこちらの方です)
今でいえば、懲戒免職ですね。
要するに身分証明書は持っていたけれど、旅行許可証を持たずに旅に出てしまったといったところでしょう。
藩の役人は春になるまで出発を待てと説得したそうですが、本人は「藩の規則を優先させて、友情による約束を反故にすれば、他藩に対して長州藩士が笑いものにされる」なんて屁理屈をこねたそうです。
しかし、本音は「一刻もはやく日本を見聞して国防策を練らねば、侵寇の憂き目に遭う」という焦りだったらしいです。
だから、冬場に水戸から会津-越後-秋田-津軽なんて遭難覚悟のルートを歩き通しました。
国防云々は別にして、松陰の「この目でいまを見たい」という好奇心には、尋常ならざるものを感じます。
江戸へ戻った松陰は、萩に強制帰国させられ、そこで上記の処分となるわけですが、長州藩という組織はどこか若者に対して甘いところがあって、松陰を実父の「はぐくみ」(武士の育成枠で、一種の士分見習いのような身分)ということにして、再び遊学を許可します。
(こちらは移転前の象山塾跡(銀座6丁目15)。神田お玉が池っていうから、もっと北なのかと思っていました。どの地図も間違った場所をプロットしているので指摘しておきますが、場所は銀座東五丁目交差点から采女橋公園前方向へ50mほど入った、でんぱつビル前です35.668394, 139.766377 )
罪人となって実家へ戻った松陰を、家族は暖かく迎えたそうです。
藩で官吏をしているお父さんなど「少々の間違いはあったけれども、将来のために(その経験を)使いなさい」なんて諭したりして、いやぁ、こんな家族だったから、また旅に出られるのだろうなぁと感じます。
そして再び遊学のために萩を発ち、あちこちを巡って松陰が再び江戸へ出てきたのは、1853年の5月でした。
さすがに今度ばかりは日比谷の長州藩邸に世話になるわけにもゆかず、京橋桶町にあった鳥居新三郎という房州出身の任侠が主宰する、「蒼龍軒」という下宿屋のような場所に身を寄せました。
ただし、蒼龍軒のあった場所は碑もなくて判然としません。
鍛冶橋を渡った先にあったといいますから、今でいうと鍛冶橋交差点(35.677248,139.767069)から北東方向、ちょうど八重洲ブックセンターのある裏あたりでしょうか。
そして、江戸へ出てきて早々に、叔父のいる鎌倉へと向かいます。(つづく)
(鍛冶屋橋交差点から京橋桶町方向を望む。東北旅行から帰った松陰は、「決して罰しないから」と説得されて日比谷藩邸に出頭し、罪人として捕らえられて萩送りになった経緯から、二度目の上京の際は、こちらに拠点を移しました)