いま、西日本の広範囲にわたる地域において、集中豪雨による被害が出て、大変なことになっているようです。
縁や土地勘のない人には、岡山県倉敷市の真備(まび)町と聞いても、すぐにどこにあるのかわからないでしょう。
でも、ブロンプトンで街道めぐりをやっていると、真備の「高梁川と小田川の間で被害甚大」と聞くと、それって西国街道の川辺宿付近でしょうと、具体的にわかってしまいます。
川辺宿は、京都羅城門跡を起点として西国街道19番目の宿場です。
(広島県の坂町だって、広島駅からとびしま海道へゆくために呉線に乗り、広島市から呉市に入って最初の駅が「坂」だから、あそこか…とピンと来てしまいます。)
旧西国街道で辿る山陽路いうと、左手に穏やかな瀬戸内海をみ臨みながら浜辺をゆくという、優雅なイメージがあるかもしれませんが、実際は全然違います。
須磨浦あたりで明石海峡に臨んだあと、山に入っては峠を越えての繰り返しです。
次に海を見るのは広島県の尾道あたりまでありません。
岡山市内から、吉備津駅付近まで吉備線に沿って北上した旧街道は、そこから西進し、国分寺のある総社市を抜けて、伯備線の清音(きよね)へ出て、そこで高梁川を渡って以降は、小田川の谷を井原鉄道に沿って西へ遡るのです。
三原市から広島市へ抜ける際も、峠を2つ越えますし、岩国から徳山へ抜ける際も、海に近い山陽本線沿いではなく、欽明路とよばれる岩徳線沿いをゆきます。
つまり、予想とは裏腹に山また山なのです。
本州の中央部のように、標高の高い山がないからといって侮れません。
実際に、旧東海道よりもはるかに地形が複雑です。
真備町は、字からもわかるように、吉備真備(きびのまきび 695-775)の出身地です。
彼は717年に第9次遣唐船で阿倍仲麻呂等とともに唐に留学、儒教、天文学、音楽、兵学など広く学び、膨大な量の書籍を日本へ持ちかえっています。
その後東宮学士(皇太子の教育係)になり、35年後の第12次遣唐使では、副使を務め、帰国後は右大臣にまでのぼりつめています。
(空海や最澄が留学する第18次遣唐使船は、そのさらに52年後)
日本史に少し詳しい人であれば、奈良時代の大学者として、平安時代の菅原道真とともに記憶されていると思います。
郷土の天才ですから、真備の墓と伝えられている古墳丘はまきび公園として整備され、麓には菩提寺や記念館もあります。
街道と並行する井原鉄道には「吉備真備駅」もあったと思います。
西国街道(山陽道)沿いには筆塚がありました。
そして、人口がさほど多いとは思われないこの街に、複数の書店が目につきました。
きっと、学問の神様として信仰を集めている真備のお膝元ですから、本を愛する人も多いのだろうと思いました。
そのうちの古そうな一軒に入って、二言三言、お店の人とことばを交わした記憶が蘇りました。
いま、教会やお寺などで「被災して困難なときにある人たちのために祈りましょう」といわれると、西国街道をブロンプトンで走ったときに出会った人たちの顔を思い出します。