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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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旧東海道へブロンプトンをつれて 41.宮宿から42.桑名宿へ(その6;佐屋街道 佐屋→尾張大橋)

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(歩いていれば目に留まるくひな塚への道標)
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佐屋街道の須依交差点(35.151999, 136.716570)を右折し、佐屋宿に入る手前、交差点から160m先の路地入口に、左くいな塚の小さな道標があります。
クイナは漢字で「水鶏」と書くのですが、ここ佐屋では芭蕉の句が残っています。
 
水鶏啼くと 人のいへばや 佐屋泊り
 
水鶏の鳴き声を聞いていったらいかがですかという誘いに、佐屋に泊ることにしたという情景を歌っていますが、鳥の声を聴くために宿泊してゆこうなんて、のんびりしています。
いまの旅では行程がタイトだから、もう一泊していこうかな、などと思ったところで、なかなか許されるものではありません。
そう考えると、門人があちこちにいた芭蕉は恵まれていると思うのでした。
そのまま直進し、280m先の信号のある四つ角が佐屋宿の中心でした。
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脇往還佐屋街道4番目の宿場である佐屋宿は、佐屋湊とも呼ばれる渡船場でした。
名古屋方面からきた旅人は、ここから川船に乗って三里の渡しをくだり、桑名宿へと向かっておりました。
ここには七里の渡しの宮宿同様に、船番所、船会所、奉行所、代官所、それに尾張藩主の休憩所となる御殿もあり、まさに湊でした。
交差点の手前右手が代官所の跡地、先左手が船着き場と、それぞれ碑が建立されています。
但し、こちらは川船ですから流れに乗ってゆけば下ってゆけるわけで、七里の渡しのように、風任せということは少なかったようです。
ただし、桑名宿から佐屋宿へと川を遡上する場合は、風帆に櫓で漕いだり、時には船員に陸から綱で引かせたりと、かなり大変だったようです。
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(代官所跡)
 
その時代は木曽川の分流である佐屋川に面しており、佐屋から下流に向かうと、木曽川や揖斐川が加わって、鍋田川、筏川、鰻江川、早川など多くの分流の中に、多くの中洲島が存在しているという状況で、現在のように上流はダムで水量を調節しているわけではありませんし、浚渫技術も稚拙ですから、どんどん川底に泥が堆積し、江戸時代も後期に入ると佐屋宿は平底の川船ですら運航できなくなり、仮の船会所がどんどん下流方向へと移転したようです。
明治になると、もう少し伊勢湾寄りの前ヶ須街道が新道として開かれ、弥富市前ヶ須からふたつやの渡しで桑名へ渡るようになったため、佐屋宿の役目は終わりました。
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(船着き場跡)
 
さて、七里の渡し同様に、三里の渡しをどうするかという問題が出てまいります。
だいたい次の5つのパターンではないでしょうか。
1.地形が変わっていようがいまいが、川下り船のルートになるべく近い経路をたどる。
2.県道や国道を利用して最短距離で桑名へ行く
3.できる限り車の少ない路地を利用し、やむをえない場所だけ橋を渡る
4.ひたすら川の堤防を伝い、橋を川沿いの道で桑名へ行く
5.佐屋駅から桑名駅まで電車に乗る
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(明治天皇行在所門)
 
このうち、ここまでブロンプトンで走ってきて5はないと思うのです。
1は地図を見ればわかりますが、木曽三川を渡る橋が事実上国道1号線の橋しかなく、昔の航路は鰻江川(うなぎえがわ)を利用していたということですから、長島でちょうど桑名の渡し場と揖斐川、長良川を挟んだ対岸あたりまで南下したらまた国道まで戻ってこなければならず、往復で3.2㎞ほどロスします。
それに、佐屋川は海部幹線水路として整備されたために、流路も面影もかつての姿を失っています。
かといって、4は特に冬場は風が強いし、この付近の川は関東人なら利根川の中下流域や、荒川の最下流部(新木場あたり)よりも幅が広く、景色に変化がないのでお勧めしません。
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(こんな小さな八角堂が見つかるのも路地裏の楽しみの一つです)
 
DANさんとの旅では、帰りの新幹線の時刻を気にしながらなるべく距離を稼ぐことを考えていたので、2を利用しましたが、せっかくここまで来ているのですから、この地域の暮らしなども見聞したいものです。
ということで、このブログでは別シリーズでやっているように、名鉄尾西線に沿って木曽川左岸を南下し、国道1号線の尾張大橋で川を渡河、長島では城下町近くの路地を通過し、伊勢大橋東詰の交差点に出て橋を渡り、揖斐川の右岸に出たら堤防の上を桑名の渡し場へ下るというルートでゆきたいと思います。
実際に幾度か走る中で、それが一番味わい深いものでした。
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(亡くなった兵士の顕彰碑)
 
さて、渡し場跡からそのまま路地を南下します。
国道155号線との交差点近く、善定坊というお寺に、明治天皇佐屋行在所(あんざいしょ)の門があり、明治天皇が東幸の際には佐屋街道を利用したのだということがわかります。
確かに、七里の渡しを利用するのは危ないですから。
しかし、明治元年には蒸気船もあったはずですが、それを利用しなかったということは、当時船などの文明の利器は、朝廷にはあまり信頼されていなかったということなのでしょう。
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そのまま県道458号線の一本東の路地を南下します。
ある家の隣に、故陸軍歩兵上等兵の大きな石碑を見つけました。
赤坂宿付近にもありましたが、旧街道を歩いていると、このように先の大戦で亡くなった兵士を偲ぶ碑を家族が建てているのを時折見かけます。
今になって靖国の英霊が云々とか、憲法を改正して自衛できる国にという人たちは、こうして地方に散在している名も知れぬ兵士の墓や、鎮魂の碑に足をとめた経験があるのでしょうか。
赤紙一枚で招集されて、還ってきたのは桐の箱に入ったやはり一枚の白い紙きれだけという結末に、石碑を建てずにはいられなかった肉親の気持ちを想像したことがあるのでしょうか。
当時支那事変(日中戦争)も太平洋戦争も、自衛の戦争といわれていたことをご存知でしょうか。
彼らは時代にあった憲法をというけれど、自民党が憲法改正を目指して結党した頃と今は世情もかなり異なります。
私はがちがちの護憲にも疑問を持っていますが、どちらかといえば改憲の方が過去の(アメリカに憲法を押付けられたという)怨みに縛られているという点で、時代錯誤な気がしています。
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(線路が見えると安心します)
 
いったん県道に交流したら、すぐに左折して名鉄尾西線と県道の間に広がる田んぼの道をゆきます。
尾西線は一宮市と弥富市を南北に結ぶ名鉄のローカル線で、全線単線ながら10分~15分おきに電車がきます。
佐屋街道も岩塚宿から津島までの間は鉄道線からかなり外れており、歩いているときにはかなり不安でしたが、こうして線路沿いの道をゆく限り、見知らぬ地域でも安心感が違います。
線路沿いの道に出て南へ走っていると、線路の上を東名阪自動車道が跨いでいる地点に辿り着きました。
尾西線も半分高架になっていて、高速道路下の側道と立体交差しています。
そして、高架上には明らかに駅の遺構とおぼしきプラットホームとそこへ昇る階段がついています。
これが弥富口駅跡です。
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(前方尾西線と東名阪自動車道が交差しているあたりが弥富口駅跡です)

弥冨口駅は201612月を以て廃止された廃駅です。
この近くに紡績工場があって、その職員が利用していたようですが、繊維不況から外国への機能移転に伴い工場は閉鎖され、それに伴って利用者も激減したため駅を閉めたようです。
毛織物の会社では日本一のシェアを誇り、特に学生服や官公庁のメーカーとしては有名だったそうです。
おそらくは、少子化や制服需要の減少なども影響しているのでしょう。
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その先で県道に復帰すると、工場跡地はイオンタウンに変わっていました。
イオンタウンの南東角にある海老江交差点(35.114303, 136.719677)の先を直進して県道と別れ、JR関西本線、近鉄名古屋線の線路を立て続けにくぐって国道1号線に出ます。
このあたりの国道1号は上下合計2車線で、付近の県道と変わりません。
近くの信号で国道を横断し、直線的に路地を南へ入って筏川の橋を渡ります。
この付近が前述したふたつやの渡し場跡です。
そのまま木曽川の土手裏斜面を上り、右へ回り込むようにてっぺんに出ると、木曽川に架かる国道1号線の尾張大橋東詰めです。
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(関西本線をくぐります)
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(ふたつやの渡し場跡付近)
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(尾張大橋)
 
次回はこの尾張大橋を渡り、対岸の長島を抜けてから長良川、揖斐川を渡り、桑名宿へと向かいます。
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