旧東海道の旅も、日本橋を出て41番目の宿場である宮宿(熱田宿)まで参りました。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といいますが、ここから桑名宿の区間もまた、旅人は簡単に越えることのできない海が広がっています。
江戸時代の旅人たちはここから次の宿場である桑名宿まで船に乗って伊勢湾を渡っておりました。
この航路を七里の渡しと呼びます。
呼び名は満潮時に沿岸を進むいちばん短い航路の距離が七里(およそ27㎞)だったからで、干潮時には木曽三川をはじめ、庄内川などの河口付近に干潟があらわれるため、航路はおおまかに五通りありました。
時代が下るにつれて、干潟も大きくなったため、いちばん沖合をまわる航路の距離は40㎞にも届くほど(10里)だったといいます。
これは今のように土木技術が未発達で治水に限界があった当時、木曽三川の流路が可変的で、橋を渡すのは当然に無理ですし、道を普請しようにも大きく上流側へ迂回しなければならなかったことによります。
ではどんな船に乗っていたかというと、広重の絵を見ればわかるのですが、いわゆる弁才船と呼ばれる大きな帆が一つの和船で、今風にいえば帆掛け船、ジャンクです。
こんな風帆船ですから当然に風浪の激しい時は欠航になりますし、文字通り風まかせで順調な日でも桑名まで約4時間、前述のように大回りすれば6時間もかかりました。
渡し賃は正徳年間(1711-1715)の記録で旅人ひとり45文ということです。
少しアバウトですが、当時の米1升が80文、銭湯が6文といところから、平成の円に換算すると、一文65、6円として3,000円弱ということになります。
荷物は一駄(馬一頭に背負わすことのできる単位で三十六貫=135㎏)100文、馬一頭123文とのことですから、意外に低料金です。
もちろん、船もいくつかのグレードがあって、大名が用いる御座船などは豪華な分船賃も高かったといいます。
和船の乗り心地といえば、これは河川の渡し船などに乗ったときの感覚から推測するしかないのですが、波間に浮く木の葉状態で、べた凪の日でもなければ普段船に縁のない人たちは船酔いに苦しんだと思われます。
海難事故も多かったようで、桑名宿の光明寺には供養塔があるそうです。
「板子一枚下は地獄」という状況に耐えられないひとは、佐屋路とか佐屋街道と呼ばれる陸路を木曽川の支流である佐屋川べりに設けられた佐屋宿(現在の愛西市佐屋町)までゆき、そこから三里を川船にのってくだりました。
また美濃路と呼ばれる脇往還を通って北西に向い、中山道の垂井宿に出て関ケ原を越えるルートもありました。
こちらは、今の新幹線と同じルートで冬などは気象条件が厳しくなります。
さて、日本橋からできるだけ旧東海道をブロンプトンで忠実に辿ってきたこの旅も、まさか海上を自転車で渡るわけにもゆきません。
江戸時代の航路の大半は平成の御世には埋め立てられているわけですから、正確にトレースすることに固執するなら、埋め立て地の中を走り、川にぶつかれば上流へ戻って渡るという方法も考えられなくはないのですが、とんでもないジグザグルートになることは必至ですし、もはや海ではない場所にかつての面影を探すのも空しい気がします。
そこで、大概の人は次のような選択肢の中から自分に合った通過の仕方を選ぶことになります。
1.宮宿(神宮前駅・熱田駅)~桑名宿(桑名駅)間を鉄道で移動してしまう
これが一番ポピュラーな方法です。
名鉄線で名駅まで出て近鉄線に乗り換えると、運賃は670円(230円+440円)で40分弱で移動できます。
JRで移動するなら熱田駅から桑名駅まで運賃500円、こちらは1時間弱です。
折りたたみ自転車を使って尺取虫方式で来た人なら、気軽にこの方法を使えます。
それにしても、江戸時代と比べてなんとコストパフォーマンスが良いのでしょう。
名駅での乗り継ぎが悪いなんて文句を言ってはばちがあたります。
2.七里の渡しを船で渡る
旅人たるもの、やはり路の続く限り陸路をゆき、水流るところは船で渡りたいものです。
実際に船着き場に行ってみると、運河に向って右手の桟橋にNPO法人が運行しているクルーズ船の案内があります。
ただし、年に1回で今年は10月29日、11月5日の2日間交互に3便ずつ、合計6便です。
支援金としての料金は5000円でブロンプトンを携行させてもらえるかどうかはわかりません。
6月21日現在若干の空きがあるようなので問い合わせてみてはいかがでしょう。
なお伊勢湾横断航路は他にも2つあります。
ひとつは中部国際空港(セントレア)から津へ渡る航路、もう一つは伊良湖から鳥羽へと渡る湾口航路です。
どちらも南に離れているため、旧東海道の旅の代替ルートにはなりません。
3.佐屋路をゆく
司馬先生のタイトルみたいになってしまいました。
佐屋街道は家康による東海道の制定に遅れること33年、時の将軍徳川家光が上洛する際に、初代尾張藩主徳川義直(1601-1650)が開いたといわれています。
家光にとって義直は大伯父にあたります。
佐屋街道にも4つの宿場があり、こちらを含めると東海道五十七次になります。
佐屋宿からは木曽川に沿って河口に向ってくだり、途中国道の橋を利用して河川を渡るプランです。
渡し場から渡し場までの距離を実測すると、36.9㎞になりちょうど船で渡ったのと等距離くらいにはなります。
今まで、酒匂川、大井川、天竜川など、渡し船が現存しない場所はすべて渡し場まで行ったのちに橋を迂回して渡河してきました。
それを考えると、このルートが今までの方法を踏襲した形になると思います。
(佐屋街道のルート)
4.美濃路をゆく
宮宿から北西に向う美濃路は、東海道と中山道を結ぶ脇往還です。
現代の名鉄名古屋本線に沿って国府宮付近までゆきそこからやや西に進路を振って、東海道本線と東海道新幹線の中間付近をすすみ、起(おこし)宿で木曽川を渡り、秀吉の一夜城で有名な墨俣(すのまた)で長良川を渡ります。
大垣手前で揖斐川を渡るあたりからは東海道本線に沿って西進し、垂井駅の北で中山道と合流します。
宿場数は宮宿と垂井宿を入れて9あり、こちらから中山道へ連絡して京の三条大橋までゆくと、日本橋~三条大橋間は六十一次となります。
距離は63㎞あります。
馬を船に載せることができなかった古東海道の時代はこちらがメインルートでした。
しかしこちらのルートへ足を踏み込んだら、東海道の残りは放棄することになってしまいますから、まず旧東海道、旧中山道を踏破したのちに試してみましょう。
しかしこちらのルートへ足を踏み込んだら、東海道の残りは放棄することになってしまいますから、まず旧東海道、旧中山道を踏破したのちに試してみましょう。
5.あくまでも航路に沿って走る
前述した通り、往時の航路の大半は埋め立てられているものですから、その場所を走ってゆこうというプランです。
とはいえ宮宿から堀川べりを南下し、名四国道(国道23号線)に出たら右折して西進、国道よりも南をゆく形になります。
景色は工場や倉庫、港湾施設ばかりですし、川を渡るたびに名四国道の橋まで北上し、渡ったらまた南下の繰り返しです。
航路により忠実であろうとすれば、木曽川はいちばん河口に近い木曽川大橋を、長良川は国道1号線の伊勢大橋を渡る形になり、とても距離が伸びてしまいます。
ちょっとルートをつくってみようかと思ったものの、あまりの景色のつまらなさにやめてしまいました。
さて、上記のうち私のお勧めは3の佐屋街道をゆくプランです。
船に乗るのがもっとも当時に近い移動手段なのでしょうが、なにせ年1回です。
それに、途中船に乗ってしまうと意識のうえでつながってきたこれまでの道筋が途切れてしまうのです。
徒歩で東海道を踏破したときも、ここまで歩いてきてこれから先電車はないだろうと思い、結局佐屋路を通って桑名まで歩きとおしました。
歩くにせよ、ブロンプトンで走るにせよ、江戸と京の間を自分の足で歩き(走り)通したという感覚を大切にするのなら、ここで船に乗ったり電車に乗ったりしては本当にもったいないと思うのです。
仮に折りたたんで電車に載せられる電動アシスト自転車があったとしても、それを使わないのは「自分の足で」という点を大切にしたいからです。
何かの助力を使って移動するのであれば、それこそバスや新幹線、飛行機を利用すれば済みます。
一生に一度くらい東京から京都まで歩いてみたいという希望があり、でも歩くのは大変(経験したから書きますが、かなり過酷です)でブロンプトンを使うのなら、佐屋街道や木曽川、長良川の風景は旧東海道の一コマとしてぜひ目に焼き付けておいていただきたいと思います。
次回は宮宿の周囲をご紹介し、そのあと佐屋街道の岩塚宿・万場宿(この両宿は庄内川を挟んで向き合っています)を目指したいと思います。