先日、ある学校の先生と話していて、「人に教える立場の人間は、子どもに言ったり命じたりしたことはみずから実行しなければ、禁じたことは自分が守らねば空疎なままになる、そういう意味で、教師という職業はきびしい」という趣旨の話をされていました。
福沢諭吉は学問のすすめのなかで「天は人の上に人をつくらずといわれているが、現実の社会は平等ではなく差別があり、実際に賢者と愚者、貧富の差がある。その差はとはどこからくるのだろう」と問題提起しておいて、「それは学ぶ人と学ばない人がいることによる」と結論づけています。
たしかに、自ら学ばない人が、人に何かを教えられるわけがないと思います。
もし学ばない人が何かを教えられるとすれば、それは当人が「所有している」と信じ込んでいる知識や技術を切り売りしているだけの話であり、だったらそれらが日進月歩している現代では、その中身は大したことではなくなっているのではないでしょうか。
では、本当の意味での「学び」というのはどのようなものでしょう。
先日の朝、仕事に向かう途中に線路際をブロンプトンで走っていたときのお話です。
どんよりと曇った空からちょうどぱらぱらと雨が落ちてきましたが、仕事場まで15分程度だったので、そのまま走っていたのです。
朝の8時台でターミナル駅間近の場所ですから、電車が詰まっている様子で通り過ぎる踏切の遮断機はどれもおりたままです。
私も踏切をわたって向こう側にある線路沿いの道を走りたいのですが、このままこちら側の道を進んで、踏切が開いた時点で渡ればいいさと自転車をこいでいたのです。
閉まったままの踏切前を横切れば、車や人とバッティングすることもありませんしね。
このあたりが、ブロンプトンの気楽なところです。
ふとみると、線路の向こう側から閉まった遮断機をこじあげて、傘を差したまま無理やり踏切を渡るひとりの歩行者が目に入りました。
開かずの踏切状態ですから、両側には車も人も複数待っていて(こちら側には幼稚園児くらいのお子さんの手をひいたお母さんの姿もありました)、衆人監視の中の強行突破です。
その人は、わりと落ち着いた感じで、堂々とこちら側の踏切の遮断機もくぐっていました。
遠くからこちらに向かってくる電車が、警笛を鳴らしながらブレーキをかけるのがわかりました。
踏切を突破した人は、さっと身をひるがえして路地の向こうに消えてしまいましたが、電車は止まるか止まらないかぎりぎりのスピードまで減速して踏切を通過してゆきました。
わざわざ見なかったけれど、きっと電車の運転手はあの人が消えた先を睨みつけていたと思います。
そのまま線路沿いを走行し続けていたので分かりましたが、後続の電車も、反対から対向してきた電車もみな減速して、ただでさえ開かずの踏切がますます開かぬままになってしまったようでした。
混雑している電車に乗っていた人も、とんだとばっちりだったと思います。
一人の不心得者のせいで、皆が迷惑している場面にでくわして、ちょっと酷いなぁと軽い怒りをおぼえました。
軽くてすんだのは、私が線路際をブロンプトンで走っていたからで、他の人たちに混じって踏切が開くのをじっと待っている立場だったら、もっと腹が立ったと思います。
「もし電車と接触したりしたら、それこそ大問題なのに」
「あの人は、自分が他の人たちに迷惑を掛けていることを自覚しているのかしらん。」
「子どもの前で堂々と信号無視する人はきょうび珍しくもないけれど、少しは恥ずかしくはないのかな。」
「あの調子だと、毎回閉じた踏切を突破している様子だから、たぶん何も考えていないな。」
きっとそんなことを考えたと思います。
いまネット上やマスコミでは他人を批判したり、誰かを断罪したりする言葉があふれていて、憎悪のるつぼ状態だと感じます。
教師や警察官、或いは有名人などの犯罪や不祥事が明らかになると、ここぞとばかりに攻撃の嵐です。
わたしは「悪いものを悪いといったところで無意味だ」という立場ですが、誰が不心得しようが、不道徳な行為をしようが、法を犯そうが、その人と自分との間にどんなかかわりがあるというのでしょう。
会ったことも話したこともない人に対して、「失望した」とか「裏切られた」と発言する人は、ふだんは何に対するどんな信用や信頼感で生きているのかと思ってしまいます。
そもそも、人間は他人を裁けるほど立派な生き物でしょうか。
こういうとき、信仰では「その他人に迷惑をかけた人と、迷惑をかけられて怒った人双方に対して祈りなさい」ということになります。
実際に損害を被った、迷惑をかけられたとしても、その事実を怒りの感情に転化するような生き方は手放しなさいと諭されます。
事実、「怒りの感情は、たとえそれが正当なものであっても第一級の殺人者と同じである」といわれるほどに害があるものだと思います。
わたしはこんな風に思っています。
怒りが出るということは、相手に対する嫉みや妬みの感情があることの証拠なのだと。
たとえば、閉じた踏切を突破する人を非難する感情の中には、「本当は自分も踏切を無視して渡りたいのに」という嫉妬がどこかに入っているのでしょう。
痴漢を疑われて線路上を走り、電車を止めた人に対する攻撃や、覚せい剤の所持や使用で捕まった人を非難するのも同根だと思います。
冗談じゃない、わたしは痴漢なんか考えたこともないし、覚せい剤など無縁の生活を送っているのだから、彼らに対して羨ましいなどという感情は一片たりとも混じりようがないと反論する人もいるかと思います。
わたしもそうでした。
若いころ、「もしその人と同じ境遇だったら、そうならなかったと断言できるかい」という質問に対する、「仮定の話をされても困る」とか「不幸な境遇に育った人すべてが犯罪に走るわけではない」等々もっともらしい反論に共感していましたから。
でも、ひとの心の奥底には、そうした「道を外したい」という欲望は大なり小なり誰にでもあることだと私は思います。
そういう話に大概の教育者は「べき論」で蓋をしてしまいます。
きっと自分に跳ね返るのを恐れているのでしょうね。
けれども自分の中にある邪悪なものに気付けないようでは、他人の立場にたってみることも、人に寄り添って生きることもできず、一緒に問題解決を考えてみようとする姿勢は持てなくなります。
毒にも薬にもならないような安全な人とのみひたすら浅い関係を結んでゆくか、へたをするとただ自省なく他人を裁いて自己防衛することにのみ汲々として生きることになりかねません。
わたしは人の本質は善だと信じています。
けれども、その善を覆い隠してしまうようなどす黒いものも併せ持っているのが人間だと思います。
自分で邪悪な自己を取り除けるのなら、神さまや仏さまの出番はありません。
神の裁きとは、その神に自分から背をむけることによって、神との関係を断ち切られている状態のことをいうのだと、先日学びました。
狭量な器で他人を量る人は、その小さな器の中でしか自分を省みることができなくなるのでしょう。
冒頭の聖書の言葉、「自分の目の中にある丸太」とは、その原因となるものを指しているのだと思います。
そして本当の学びとは、知識や技術を習得することのうえに、日々折々の生活の中で、自分の目の中にある丸太に気付くことだと思うのです。
気付くためにも、他人の眼のなかのおが屑を取り除こうとするような行為は、すぐに手放そうと思うのでした。