前回は多摩川浅間神社の周囲をご紹介しました。
今回はちょっと寄り道をするために、都側川沿いの道路を上流に向かって少し走ってみましょう。
多摩川台公園下の部分は、暗渠の上が歩道になっています。
この下は江戸初期に14年もかけて開削された六郷用水(通称次大夫堀)が流れています。
旧東海道の旅の川崎宿のところで出てきた田中丘隅さんがのちの享保年間に改修しています。
(http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/36882279.html)
(http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/36882279.html)
その先が築堤上の都道になりますが、自転車の走るスペースはないので、築堤下の側道を走ってゆきましょう。
(神社展望台のビル下の前の部分が、六郷用水の暗渠になっています)浅間神社から900mほど走ると、グランド小池商店があります。
オールド・ジャイアンツファンなら知らない人はいないはずです。
道路を挟んでお向かいの多摩川河川敷には巨人軍多摩川グラウンドがありましたから。
店内は往年の選手の写真やサイン色紙で埋め尽くされています。
V9の時代の後期、つまり自分が小学生のころ、同級生の野球少年たちは自転車でここまで通っていました。
(グランド小池商店)当時の巨人軍の選手といえば、野球少年にとっては憧れどころか神さまのような存在でしたからね。
その選手たちが地獄の練習で喘ぐさまを、ここで見ていた人たちは何を感じたのでしょう。
あ、私は野球には全く興味アリマセンでしたが、それでも背番号とポジション、名前くらいは覚えていましたよ。
それにON両選手の自宅も、ここからわりと近い東横線沿線にあると知っていました。
それくらい、人口に膾炙していたのです。
少年時代に戻った積もりになって、ブロンプトンを脇にとめて土手に腰かけ、少年野球をぼんやりと眺めながら、昔の子ども向け野球小説などを読んでみるのも面白いかもしれません。
『涙の甲子園』 北条誠著 ポプラ社 1954年刊
(幼いころ、親戚の家で読んだ記憶があります。
たしかチームメイトの死を乗り越えて優勝する話だったと思います。
しかし、いまさらこんな古い小説、どうやって手に入れるのでしょう)
(かつて巨人軍多摩川グラウンドがあった場所)少年時代に戻った積もりになって、ブロンプトンを脇にとめて土手に腰かけ、少年野球をぼんやりと眺めながら、昔の子ども向け野球小説などを読んでみるのも面白いかもしれません。
『涙の甲子園』 北条誠著 ポプラ社 1954年刊
(幼いころ、親戚の家で読んだ記憶があります。
たしかチームメイトの死を乗り越えて優勝する話だったと思います。
しかし、いまさらこんな古い小説、どうやって手に入れるのでしょう)
さて、多摩川左岸を下流方向へ戻り、丸子橋に戻りましょう。
北東詰めの道路向かいに、旧丸子橋の親柱が残されています。
現在の丸子橋は交通量の増大に伴って2000年に架橋されたもので、その前は2車線の古い橋(1935年竣工)でした。
さらに下流方向へ走り、築堤下の河原に降りると丸子の渡し跡の看板が残っています。
旧中原街道は、福山雅治さんの歌で有名な桜坂を下り、この地点で多摩川を渡河していました。
上記旧丸子橋が架橋されるまでのお話です。
古くは「まりこの渡し」と呼ばれ、『東鏡』にもでてくるそうです。
1487年ごろ道興という門跡の僧侶が書かれたとされる、京都から東国への紀行文『回国雑記』には次のような記述があります。
まりこの里にてよめる
東路の まりこの里に いきかかり あしもやすめず 急ぐくれかな
駒林の里に至りて云々
一瞬、東海道の丸子宿の話かと勘違いしそうですが、駒林の里とは現代の横浜市港北区日吉本町に小学校の名として残っている場所のことですから、室町時代の鎌倉街道(下道)を筆者が南下しているのだと分かります。
室町時代はまだ東海道が整備されておりませんので、中原街道や鎌倉街道の方が栄えていたときいています。
(丸子の渡し跡 左神奈川県側 右東京都側)丸子の渡し跡碑のすぐ下手に、横須賀線と東海道新幹線の多摩川橋梁が架かっています。
東横線の車窓から、横須賀線の鉄橋が目と鼻の先に見えるので、昔から、このあたりでこんなに両線が近接しているのなら、乗換駅ができると便利だよなぁと思ってきました。
しかし、JR側にはメリットが無いために、ずっとそれは夢で終わっていました。
それが2010年、横須賀線の武蔵小杉駅が開業し、もの凄く便利になりました。
武蔵小杉駅の巻でも書こうと思いますが、あそこは川崎市、いや神奈川県最強の都心へ出るのに便利な街になりました。
すると、それまで工場とグランドだけだった武蔵小杉駅の東側は再開発され、高層マンションがニョキニョキと立ち並びました。
これで新幹線の駅もできたら…なんて考える人もいたようですが、さすがにJR東海は首を縦にはふりません。
だって品川駅と新横浜駅までの距離が新幹線としては短すぎるし、武蔵小杉駅から品川駅は横須賀線で2つ、新横浜駅ももうすぐ目黒線が直接乗り入れするようになりますから。
そう思いながら、丸子橋の向こうに聳える高層ビル群を眺めると複雑な気持ちになります。
(今から63年前の風景との比較)さて、実際の丸子橋を渡って多摩川を越えましょう。
歩道は上流側を走りましょう。
右手の左岸には、先ほどの多摩川浅間神社が見えています。
そのやや上手に、調布取水堰があります。
東急東横線の鉄道橋のさらに上流なので、見えにくいかもしれませんが、川を堰がまたいでいるのが見て取れます。
多摩川には八つの取水堰があります。
上流から順に、小作、羽村、昭和、日野、大丸、二ヶ領上河原、二ヶ領宿川原、調布で、ここが最下流の取水堰となります。
昭和45年までは実際の取水がおこなわれていましたが、現在は工業用水のみに制限されているそうです。
(調布取水堰)今でこそきれいになって鮎が戻ってきている多摩川ですが、昭和40年代、子どものころの多摩川はもの凄く汚染されていました。
生活排水の中に混じる洗剤がこの堰で泡立って、風の強い日など鉄橋の上を走る東横線の車窓まであぶくが舞い上がってきてしまい、ここを通過すると一瞬窓の外が泡だらけになってしまうという現象が起きていました。
ちょうど、のちのドラマ「岸辺のアルバム」の題材となった、狛江市での多摩川水害が起きたころのお話です。
あんな汚かったのに昭和45年まで水道水用の水を取水していたなんて、いくら浄水処理をするからといってもショックです。
なお、現在の水道水は多摩川の場合小作取水堰で取水され、そこから導水管で山口貯水池へ送られて貯水され、さらに村山浄水場で浄化されてから都民の水道水へと生まれ変わるそうです。
(左;源流方向、奥多摩の山々を望む 手前左手のビル群が二子玉川)さらに上流方向に高層マンションが見えますが、あそこが二子玉川です。
多摩川のはるか上流に奥多摩湖があるのはご存知と思いますが、源流はそこから丹波川をもっとさかのぼった山梨・埼玉両県境にまだがる笠取山の南斜面にある、水干(みずひ)という場所です。
以前青梅街道を柳沢峠から下った際に、落合集落と一之瀬高原をご紹介しましたが、そちらが水干への登山口になります。
もし都内にお住いで多摩川の水を飲んでいるのなら、一度は訪れてみたい場所です。
(63年前の東横線って三両編成だったのですね)なお、東京都の水道水源の内訳は、78%が利根川・荒川水系で、19%が多摩川水系になっています。
今は水道水を飲む人は少なくなっているかもしれませんが、都民に聞くと明らかに味が違い、多摩川水系の水道水の方が美味しいのだそうです。
ここで都県境を越え、橋を渡った先で坂を下ると中原街道と綱島街道の分岐点丸子橋交差点に出ますので、左手の綱島街道の歩道を進み一つ目の路地を右折しましょう。
東横線の線路手前で左折すれば、新丸子駅はおよそ200m先の右手になります。
次回は新丸子駅周辺をご紹介しましょう。