旧東海道の旅は、濱松宿を通り抜け、JR東海道線をくぐって国道257号線に出た、西浅田北信号(34.695996, 137.721011)からはじめたいと思います。
それにしても地名に方角を示す漢字が2文字以上入ると「西東京市」みたいにややこしいですね。
西浅田の北ということなのでしょうが、浅田町から見て西なのか北なのか…。
ここから国道257号線を南西に向かうのですが、すぐ東海道新幹線の橋の下をくぐります(34.694241, 137.719112)。
浜松駅を背にしたとはいえ、まだこの付近は市の中心に近く、車道は通行量が多いため、歩道を走ります。
自動車販売会社、ファストフード店、コンビニなどが立ち並ぶ、日本全国に共通する景色の道をゆくと、850m先で短い鎧橋という名の短い石橋を渡ります(34.690403,137.715099)。
平安時代のこと、ここから1.2㎞北にある(旧東海道では本陣の集まっていた伝馬町交差点がもっとも近くになります)鴨江寺(34.705509, 137.719954)の兵が、ここで比叡山から攻めてくる僧兵を迎え討った故事からこの名がつきました。
そのとき、ここで双方におよそ千人もの戦死者が出たそうです。
原因は、鴨江寺が天皇から勅許を得ずに戒壇(仏教用語で戒律を授ける、つまり僧侶として認める場所のこと)を設置し、末寺を増やして膨大な信者を獲得していたことによるものでした。
鴨江寺の開基は行基で、彼が天皇の許しを得たうえで浜松に鴨江寺を開いたのは702年ということですから、かなり古いお寺だったのようです。
行基というお坊様は、南都の僧侶たちから正式に戒律を受けずに布教している不届き者としてにらまれていました。
そして、まだ仏教が貴族のものであった平安時代、出家は当時の特権階級に属することを意味しましたから、許可も得ずに勝手に僧侶や尼さんをどんどん増やして寺勢を拡大してもらっては困るというのが比叡山の言い分だったのでしょう。
それにしても、京都からここまで徒歩でわざわざ攻めてくるとは…。
鎧橋から400mほど進んだ東若林交差点(34.688017, 137.712202)のあたりで、国道257号線はやや右へカーブし、南西から真西に進路を変更します。
交差点の130mほど手前には、一里塚跡の石碑がぽつんとあります(34.688746, 137.713354)。
東若林交差点の15m先で、国道を挟んでお堂が南北に向き合って建っています。
これが若林の二ツ御堂です(34.688004, 137.711939)。
平安時代の末期に、京に上洛中の藤原秀衡(1122?-1187)が病に倒れたときいて、秀衡の愛妾が奥州から京へむかう途中、この地点で京にて秀衡が没したという誤報に接し、道の北(京へむかって右側)に堂を建てて菩提を弔っていたところ、彼女自身がここで亡くなってしまいました。
のちに秀衡が京から奥州へ帰国する途上、この話を聞いて嘆き悲しみ、対面の南側(左側)に同じくお堂を建立したというものです。
藤原秀衡は、源平の争いでは局外中立を保って朝廷との連絡を密にし、のちに幕府を開いて時の権力者となった頼朝からあれこれ難癖をつけられても一歩も引かず、奥州藤原氏の黄金時代を築いた人です。
その後に兄弟喧嘩に敗れた義経を匿っていることからも分かる通り、男気があってモテたのでしょう。
自分を慕って平泉から京へのぼる途上に亡くなったお妾さんのために、旅の途上にお堂を建てるあたりも、何やらダンディズムを感じてしまいます。
さて、所々に松の残る国道を2,100m西へ進んだ可美中学校(34.687907, 137.690755)さきの信号のある交差点北側(京へむかって右側)、店舗駐車場のフェンス内で見つけにくいのですが、領地境界の石柱が立っています(34.688092, 137.689307)。
この石柱が、浜松藩と西隣の堀江藩の境界を示していました。
浜松城でご紹介した通り、浜松藩は徳川家康ゆかりの城として、江戸期の領主は旗本直参の内でもエリートが短期間で藩主を交代しながらつとめていました。
これに対し、西隣で浜名湖に近い舘山寺に陣屋のあった堀江藩の領主大沢家は、藤原氏の子孫として南北朝時代にここに地頭として土着した家柄でした。
つまり、徳川氏が勃興するはるか以前からの地主さんだったのです。
戦国時代のころ、大沢氏は今川家に仕えておりましたが、主家の没落に伴い遠江へ侵攻した徳川家康と争い、所領を安堵する約束を取り付けてその軍門に下ります。
それから江戸時代、幕府の儀式典礼を司る高家としてこの地に連綿と続いた大沢氏でしたが、明治維新のおり、実石高5400石にすぎなかったのに、浜名湖を開墾予定地として4600石も盛って1万石として新政府に報告しました。
1万石以上の石高をもつ藩は、それ以下の藩と維新のおり、処遇に格差があったからです。
1万石以上の石高をもつ藩は、それ以下の藩と維新のおり、処遇に格差があったからです。
これで当主は華族に列せられ、廃藩置県のおりも静岡県とは別に堀江県が設置されたわけですが、のちに虚偽の報告が露呈してしまい、当主は士族に、虚偽の報告をした家臣は平民に降格させられたうえで、ともに刑事罰を受けました。
何だかこの付近の穏やかな風物とは似合わない話です。
境界石は江戸時代には今の位置より120m先の信号(34.687823, 137.684474)のある交差点北(右)側にありました(34.687979, 137.687109)。
その信号を北へ折れて60m先左側にあるのが地蔵院(34.688895, 137.683771)という臨済宗のお寺です。
門前に「高塚学校」の標柱があるのは、江戸時代中期に白隠禅師(旧東海道の旅、原宿で登場しました→http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/37610050.html)がこのお寺に100日逗留し、七百人の僧侶が集まって大法会を開いたからだと思います。
ここは、徳川家康の正室、築山殿(1542?-1579)が肌身離さずもっていた仏さまをお祀りしているお寺でもあります。
徳川家康が正室と長男(松平信康)を同盟者の織田信長から強要され、本意ならずも殺したという話は有名です。
築山殿は家康の命を受けた家臣によって、浜松城の西2㎞にある佐鳴湖畔の富塚という場所で謀殺されました。
彼女は、今川義元のいとこにあたり、竹千代という名で駿河の今川家に人質の身分で軟禁されていた10歳も年下の少年(家康は当時14歳)と、政略結婚させられました。
司馬遼太郎先生の小説「覇王の家」には、家康と姉さん女房との確執が、なかば悲劇的に描かれています。
それによると、織田信長によって主家である今川氏が滅亡したのちも、築山殿は自分が駿河の名家出身であることを鼻にかけていました。
その後、実家が滅亡する原因となった桶狭間の戦いで従兄を討ち、徳川家同様の新興勢力にすぎない織田氏と同盟を結ぶ亭主を馬鹿にして、挙げ句の果てには織田・徳川両家の共通の敵である甲斐の武田氏とひそかに通謀していたとあります。
それが、築山殿と同じ岡崎城に住み、長男信康に輿入れしていた織田信長の長女である徳姫の耳に入ったことで信長の知るところとなり、信長から家康へ暗に「妻子を葬り去るように」との強要があったことになっています。
家康は奥さんのヒステリーがかった妄想に「無理もない」と半ば同情し、何とか穏便に済ませたかったようですが、そこは戦国の倣いで武骨でならした三河武士の棟梁として、部下の手前泣く泣く処断をくだしたように描写されています。
家康を中心にして現代に置き換えると、倒産したものの散々世話になった会社令嬢を妻に迎えた中小企業の社長さんが、長男の嫁と姑の争いに巻き込まれ、果ては子の嫁のおさとである現在の取引先から、契約を続けたいのなら妻子を捨てるようにと命じられた格好です。
司馬先生の根拠は長生きした家康がのちのちこの事件のことを悔いる発言をしていたからのようですが、もともと家康と築山殿・信康との間は不仲で、その剣呑な関係を家臣団がハラハラ見守っていたという別の説もあります。
築山殿が殺されて、夫である信康が切腹して果てたのち、徳姫は美濃の国へ帰り、兄(織田信忠)のもとへ身を寄せたそうです。
大河ドラマなどで「五徳」という名で登場するこの徳姫は、浅井三姉妹同様に、戦国の世を流転した女性として記憶しています。
それにしても、自分の奥さんと長男を殺さねばならなかった徳川家康の心情も、穏やかならぬものがあったと思います。
また、自己の人生に不満だらけみたいに描写されることの多い築山殿も、こうして懐に仏さまをしのばせていたとすれば、ずっと救いを求めていたのかもしれません。
昔の職場の総務課に若くて美しいのですが、立場上お局キャラで通さざるを得ない女性がいて、漢字は違えど名字の読みが同じだったため、皆から「つきやまごぜん」って呼ばれていました。
「御前さま、この領収書は経費で落とせますでしょうか」みたいなノリで。
本人はまんざらでもないようでしたが、歴史に詳しい自分はひそかに「そのあだ名は・・・」と思っていたのを思い出しました。
その築山殿の忘れ形見をこの寺に奉納したのは、このあたりのお金持ちで旧東海道沿いにて麦飯を振る舞っていたことから「麦飯長者」の異名をとる小野田五郎兵衛さん。
彼の屋敷跡は、旧東海道に戻って120m先の信号機の北西角に、植え込みの中にひっそりと目印が立っています(34.687858, 137.682006)。
旧東海道はそのあと高塚駅入口の交差点を過ぎ、東若林から3.5㎞西の信号機のないY字路を舞阪駅方面へ国道から分かれて右へ進みます。
市道(というか元国道)に入って交通量がぐんと少なくなった道を50mもゆくと、右側のコンビニ駐車場脇に、バス停があります(34.687518, 137.672597)。
その名も「立場」です。
そう、ここは濱松宿とお次の舞阪宿の間だの立場だったところで、少しだけ古い家が残っています。
次回はこの立場バス停から舞阪宿へ向かいたいと思います。
旧東海道ルート図(浜松駅入口~二川駅前)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=1c0fa9a276c470f9763d5ca0e44aa1a0