こんばんは。
ここのところ、文章を書く気がしません。
ああ、これがスランプというやつでしょうか。
作文しなきゃと思うほどに、書く意欲が失せるというか。
むかしの作家先生の控室には原稿待ちの編集者がいてって構図がありましたね。
遠藤周作先生だか、野村宏伸さん扮する編集者に、「先生」と声を掛けられると、「やってます、やってます」ってキーボード叩くワープロのCMがありました。
その名も「文豪」だったかな。
今じゃネットにつないで仕事しないでサーフィンしてって、原稿もメールで送る時代でしょうから編集者も家まで来ないのでしょう。
でも、どうやってプレッシャー掛けるのかなぁ。
やっぱり記者同様に「夜討ち朝駆け」をやっていたりして。
ということで、神奈川宿と藤沢宿の間で気になった写真をご紹介します。
毎度俗っぽい話題で申しわけありません。
旧街道沿いでよく見かけるのが寺社に次いで蔵です。
「蔵が建つ」といえば、お金持ちになるということでしたね。
街道沿いは物流の動脈だったから、才覚によって商いを大きくすることもできたのかもしれません。
もっとも、宿場などでは酒、博打、女郎などにはまって財産をすってしまう人も大勢いたらしいですが。
こちらは電車からも見える家。
上の家はわりと昔から建っていて、よくあんなところに家を建てたものだと感心していました。
谷を挟んでお隣の丘の上には、円形校舎が建っていて、東海道本線や横須賀線からランドマークになっていたものです。
お稲荷さんの鳥居って、こうやってドミノみたいに並べて立っていますが、何か意味があるのでしょうか。
京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷、鎌倉の佐助稲荷と、みなこんな風に並んでいた気がします。
でも鳥居の起源ってはっきりしていないらしいですね。
写真の右下の千手観音の屋根が可愛らしいです。
鳥居にもいろいろ種類があるみたいですから、そのうち比較してみましょう。
パチンコ屋さんの大看板。
高速道路から見えるように設置したのでしょう。
元気を出してほしい気持ちは伝わってきます。
ここ、ちょうど権太坂に差しかかったあたりで、日本橋から来て最初のながーい急坂なので、ヒーヒーいいながらのぼる脇目にこの看板が見えてくるという塩梅です。
やや右に見えるゴミ処理工場の煙突脇に、横浜市の児童遊園と子ども植物園、そしていつかご紹介した英連邦戦死者墓地があります。
ちょうどJR横須賀線の保土ヶ谷、東戸塚間にあるトンネルの上、横浜市立平戸小あたりになります。
こんな場所で、果樹のもぎとりができるとは知りませんでした。
昔は家の近所とかにもありましたが、宅地化されてすっかりと消えてしまいましたから、子どもが小さいときには山梨まで行っていたのです。
今年の春に消えてしまった戸塚の大踏切。
すぐ脇まで戸塚駅のホームがのびていました。
横須賀線、東海道線とも駅に停まるため、この踏切は開かずの踏切として有名でした。
何でもラッシュ時は一時間のうち開いているのは合計たったの3分だったとか。
JRって、列車がすぐ脇の駅に到着する前から遮断機降ろしてしまうし、電車が通過した後も余韻で何秒か踏切が閉まったままです。
その点、私鉄の踏切は通過するとすぐ開きます。
貨物列車も混じっているからなのかもしれません。
子どものころは電車から見ていると、この踏切で係員が旗を振っているのが印象的でした。
戸塚の宿場の中にある古い医院の建物。
関東大震災の復興期に建てられたそうです。
名前の通り、震災の時には大勢の命を救ったそうです。
いろいろ不便も多いでしょうが、この建物は前の柘植の木?とともに残してほしいです。
これね、ホテルとか柄とかが目を引いて撮ったわけではありません。
(旧街道沿いにはなぜかこの手のホテルも散見され、コピーライトがどうの景観がやいのと突っ込みどころも満載ですが)
じゃなくって、この形式は上で話題にした円形校舎と同じ建物のつくりですよね。
だとしたら、今どき貴重な建物じゃないですか。
実は私も小学校の時に円形校舎で学んだことがあるのです。
入学前に、あの中は回転レストランのようにゆっくりと回っていると信じていたのに、実際には回ってなくて、南側の教室にあたるとやらた暑く、逆に北側の教室にあたると年がら年中暗くて寒く、子どもはともかく、先生の評判は散々でした。
のちにあの円形校舎は実は建築費の節約のためだったと知り、それが「大人の事情」というものだと納得したわけです。
で、このホテル、窓の位置からすると客室は子どものときの教室同様に、円グラフのピースみたいな形をしているのでしょうか。
あれ、黒板を中心に放射状に机が列をつくっていて、掃除のあとに並べ辛かったんですよ。
用もないので入るわけにもゆきませんが、中がどうなっているのか気になります。
ここのところ、文章を書く気がしません。
ああ、これがスランプというやつでしょうか。
作文しなきゃと思うほどに、書く意欲が失せるというか。
むかしの作家先生の控室には原稿待ちの編集者がいてって構図がありましたね。
遠藤周作先生だか、野村宏伸さん扮する編集者に、「先生」と声を掛けられると、「やってます、やってます」ってキーボード叩くワープロのCMがありました。
その名も「文豪」だったかな。
今じゃネットにつないで仕事しないでサーフィンしてって、原稿もメールで送る時代でしょうから編集者も家まで来ないのでしょう。
でも、どうやってプレッシャー掛けるのかなぁ。
やっぱり記者同様に「夜討ち朝駆け」をやっていたりして。
毎度俗っぽい話題で申しわけありません。
旧街道沿いでよく見かけるのが寺社に次いで蔵です。
「蔵が建つ」といえば、お金持ちになるということでしたね。
街道沿いは物流の動脈だったから、才覚によって商いを大きくすることもできたのかもしれません。
もっとも、宿場などでは酒、博打、女郎などにはまって財産をすってしまう人も大勢いたらしいですが。
上の家はわりと昔から建っていて、よくあんなところに家を建てたものだと感心していました。
谷を挟んでお隣の丘の上には、円形校舎が建っていて、東海道本線や横須賀線からランドマークになっていたものです。
京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷、鎌倉の佐助稲荷と、みなこんな風に並んでいた気がします。
でも鳥居の起源ってはっきりしていないらしいですね。
写真の右下の千手観音の屋根が可愛らしいです。
鳥居にもいろいろ種類があるみたいですから、そのうち比較してみましょう。
高速道路から見えるように設置したのでしょう。
元気を出してほしい気持ちは伝わってきます。
ここ、ちょうど権太坂に差しかかったあたりで、日本橋から来て最初のながーい急坂なので、ヒーヒーいいながらのぼる脇目にこの看板が見えてくるという塩梅です。
やや右に見えるゴミ処理工場の煙突脇に、横浜市の児童遊園と子ども植物園、そしていつかご紹介した英連邦戦死者墓地があります。
こんな場所で、果樹のもぎとりができるとは知りませんでした。
昔は家の近所とかにもありましたが、宅地化されてすっかりと消えてしまいましたから、子どもが小さいときには山梨まで行っていたのです。
すぐ脇まで戸塚駅のホームがのびていました。
横須賀線、東海道線とも駅に停まるため、この踏切は開かずの踏切として有名でした。
何でもラッシュ時は一時間のうち開いているのは合計たったの3分だったとか。
JRって、列車がすぐ脇の駅に到着する前から遮断機降ろしてしまうし、電車が通過した後も余韻で何秒か踏切が閉まったままです。
その点、私鉄の踏切は通過するとすぐ開きます。
貨物列車も混じっているからなのかもしれません。
子どものころは電車から見ていると、この踏切で係員が旗を振っているのが印象的でした。
関東大震災の復興期に建てられたそうです。
名前の通り、震災の時には大勢の命を救ったそうです。
いろいろ不便も多いでしょうが、この建物は前の柘植の木?とともに残してほしいです。
(旧街道沿いにはなぜかこの手のホテルも散見され、コピーライトがどうの景観がやいのと突っ込みどころも満載ですが)
じゃなくって、この形式は上で話題にした円形校舎と同じ建物のつくりですよね。
だとしたら、今どき貴重な建物じゃないですか。
実は私も小学校の時に円形校舎で学んだことがあるのです。
入学前に、あの中は回転レストランのようにゆっくりと回っていると信じていたのに、実際には回ってなくて、南側の教室にあたるとやらた暑く、逆に北側の教室にあたると年がら年中暗くて寒く、子どもはともかく、先生の評判は散々でした。
のちにあの円形校舎は実は建築費の節約のためだったと知り、それが「大人の事情」というものだと納得したわけです。
で、このホテル、窓の位置からすると客室は子どものときの教室同様に、円グラフのピースみたいな形をしているのでしょうか。
あれ、黒板を中心に放射状に机が列をつくっていて、掃除のあとに並べ辛かったんですよ。
用もないので入るわけにもゆきませんが、中がどうなっているのか気になります。
(そのまま西へ向かい、つづく)