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旧東海道へブロンプトンをつれて 34.吉田宿

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日本橋から始まったこの旅も、ついに34番目の吉田宿までやってきました。
旧東海道五十三次中、大きな町で現代の地名と大きく違うのは、府中宿(静岡市)とここでしょう。
明治になって豊橋という名前になりましたが、それまでは各地に「吉田」という地名があったため、区別するために三州吉田と呼ばれていました。
それ以前、中世のころは今橋といっていたそうです。
1505年、東三河の国人であった牧野古白(まきのこはく?-1506)が、豊川と先ほど渡ってきた朝倉川の合流点左(南)岸に、城を築いて今橋城と名付けたのが由来です。
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 (札木電停脇を直進すると、すぐ右側にある鰻屋さんが本陣跡です。「電停」って言葉自体に懐かしい響きがあります)

その後、今川義元から徳川家康の勢力下となり、豊臣政権下で家康が関東へ転封になると、池田輝政が城主となりました。
池田輝政は白須賀宿や二川宿で名前が出てきた大名ですが、もと領主だったわけです。
徳川幕府のもとでは東海道の宿場は重要な軍事拠点として、徳川氏の親族、旗本や親藩大名が置かれることになり、10年後には池田輝政も播州姫路へと転封になりました。
そして江戸時代は譜代大名の間で目まぐるしく領主が交代し、明治維新直前に領主だったのが、二川宿でみた伊豆蝶の家紋の大河内松平氏だったということです。
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(清州屋与右衛門本陣跡)

旧東海道の旅は豊橋鉄道東田本線の札木電停すぐ北の交差点(34.766448,137.390360)から西へ向かい、吉田宿の中心に入ってゆきます。
電停を左に見て交差点を渡ると、30m先右側に「丸よ」(34.766690, 137.389688 maruyo-gr.com)という名前のうなぎ屋さんがあります。
ここが清州屋与右衛門本陣跡です。
近代的なビルに建て替わっていますが、昔の本陣の建物の上に蔵を載せたような、当時の面影を忍ばせる建物になっています。
本陣跡というと、看板や石碑だけが立っていてその向こうは洋風の建売住宅だったりすることもあるのですが、このように少しでも昔の雰囲気を残そうという努力には、頭が下がります。
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(左;清州屋与右衛門本陣跡のすぐ先対面にあるもう一つの江戸屋新右衛門本陣跡 右;菜飯田楽で名高いきく宗)
 
本陣跡から150m進んだ左側には「きく宗」(34.767183, 137.387500 kikusou.jp)という菜飯屋さんがあります。
青菜をご飯に炊きこんだ菜飯と田楽は、江戸期に吉田宿の名物料理でした。
藤枝宿と島田宿の間で名物の染飯茶屋のお話がでてきて、現代ではなかなか食べられるお店がないという話になりましたが、こちらは現代でも食べることができます。
自分は食べたことないのですが、評判が良いようですので、食事時にここを通ることがあったら是非立ち寄ってみてください。
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(松葉公園の前を右折して、国道23号線を渡ります)

きく宗から140m、札木電停からならおよそ410m、左前方に松葉公園のある交差点(34.767565, 137.385969)で旧東海道は右折し北進します。
160m先の国道23号線を信号で渡った次の角を右に曲がると、3軒目右側に賢養院(34.769819, 137.387327)という名前のお寺があります。
ここには「関の小万」とよばれる女性のお墓があります。
関は東海道五十三次47番目の宿場である関宿のことで、母に代わって父の仇を討ったという仇討話の女主人公のことです。
後で出てきますが、有名な鈴鹿馬子唄にも登場するように、人情話だけでなく歌舞伎、浄瑠璃、小説の題材にもなり、歌謡にもなっているので、日舞などを稽古されている方もご存知かもしれません。
あまりにも広く膾炙したため、場所や時を違えてお話が存在するので、もちろん関宿にもお墓があるのですが、こちらのヒロインのお墓は浜松の北西に広がる三方ヶ原でかたき討ちを遂げたことになっています。
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(左;国道23号線と旧東海道の交差点が歩道橋ではなくてラッキーでした。 右;国道沿いにある西惣門)

旧東海道の方は23号線を渡って直進したら150mさき奥に豊川の土手が見えている信号(34.770835, 137.386451)を左へ進みます。
510m先の船町交差点(34.771358,137.383383)で右折したら、県道496号線を180mほど北へ緩い坂をのぼってゆくと、この街の名前にもなっている豊橋の南詰(34.772875,137.383975)に至ります。
下を流れるのは豊川で、源流は鳳来寺山や湯谷温泉の奥の設楽町と、長さはそれほどでもないのですが、いつ行っても水量の豊富な川です。
三河の国の名前の由来ははっきりしないのですが、三つの川を指すという説があり、江戸時代の儒学者、貝原益軒の記した「吾妻路之記」によれば、その三川とは豊川と矢矧川におほや川(男川=今の乙川か?)を指すとあるそうです。
しかし、古事記の時代からの国名ですから、あとからつくられた俗説だともいわれています。
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(賢養
院は国道に面している方が裏で右の路地裏の方が表になります)
 
さて、橋の豊橋ですが、昔は吉田大橋(今の国道一号線の吉田大橋とは違います)といって広重の絵にもお城とともに描かれたように、この街のシンボルであるばかりでなく、東海道屈指の大きな橋として有名でした。
位置は、いまの豊橋より70m下流に架橋されていたそうです。
江戸から京まで四つの大橋があって、一つ目が武蔵の六郷橋(109間;1間は6尺でおよそ1.8182m)、二つ目が三河の吉田大橋(120間)、三つ目が同じく矢作橋(208間)、そして最後が近江の国の瀬田の大橋(96間)と享保年間のガイドブック『諸国旅雀』には紹介されています。
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 (左;正面に豊川の見える信号を左折 右;船町交差点を右折して県道を進みます)

橋の南詰付近は船町という名前からわかるように、船着き場でした。
物流としてはここが廻米の集積地であり、また伊勢の国(伊勢白子や河崎)への船便の発着場所でもありました。
その利権を握っていたのが浅井余次右衛門の一族80人余と説明には書いてあるのですが、織田信長に滅ぼされた浅井長政の親戚筋ということです。
時期が天正のころということで、長政と同年代かそれより以前に分かれた親戚筋だと思います。
ここから伊勢にへの船は三河湾と伊勢湾という内海を渡るルートで、比較的安全だったせいか、大いに繁盛し一時期はこの先の七里の渡しの船待ち宿である宮や桑名の宿場が寂れてしまい、両宿が幕府に嘆願をだすほどだったといいます。
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(緩い坂をのぼると、豊橋橋詰に出ます)

こうして街道を辿っていると、どうしても陸路に目がゆきがちですが、江戸の昔は物流の中心は陸運より水運の方が主だったわけで、吉田城の位置も水運をにらんだ位置にあるわけです。
もしブロンプトンに乗ったまま背負えるフォールディングカヌーがあるのなら、こういう場所で上流まで電車で行って川下りしてみたら面白いのでしょうね。
そして船待ちの宿場といえば、芸妓や飯盛り女などの当時のセックスワーカーも非常に繁盛したそうで、膝栗毛の裏バージョンのような『旅枕五十三次』には、このあたりの遊女は江戸のそれとは髪型も服装もだいぶ異なって、唐風(中国風)で、それで宿の二階から手招きする様子が情緒的に描かれているそうです。
そば、うどんの食べ物だけではなくて、風俗も遠州と三河ではがらりと変わっていたようですね。
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(かつての船着き場跡。昔の豊橋の親柱が碑文とともに残されています)

かの滝沢馬琴は私的旅行記『羇旅漫録(きりょまんろく)』の中で、吉田の遊女について以下のような趣旨のことを書いています。
 
「彼女たちは伊勢出身だから伊勢訛りの言葉をしゃべり、妓席で三味線を弾きながら歌うさまはくらくらするほど美しい。
今切れの渡し(今の浜名湖)より西は江戸とは風俗が全く違い中国の文化を感じる。
これに対して、土地の女性は全く美しくない」
(いやはや、何ともばっさりと…馬琴も容赦がありませんね)
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現代でも東京式アクセントと京阪式アクセントの境は揖斐川といわれていますが、当時の吉田で上方アクセントの言葉をきくと、いまよりもっと外国へ来たような気持ちになったのでしょうね。
テレビやインターネットの影響なのか、最近になって若い人を中心に関西の人たちも東京の言葉を上手に喋るようになりました。
けれども、関西人同士ではあちらの言葉を喋りますよね。
冬場に新幹線に乗って新大阪駅近くの喫茶店に入り、ひとり本を読んでいるときに、後から店に入ってきた女性が「ぬくいわぁ」などと呟くのをきくとき、ああ、東京のような風情のこの付近でも、やはり大阪だなと感じます。

次回は豊橋を渡って御油(ごゆ)宿へと向かいます。
旧東海道ルート図 (二川駅~本宿駅入口)
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