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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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良いところだけをみる-欠点の裏側は美点

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ずいぶん前に、シスター渡辺和子の講演会に行った話を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/38555683.html
その時に、「自分を大切にすることは利己主義ではない。
むしろその逆。
どんな自分でも見捨てないという魂。
どんな自分であっても大切にするという愛情」
という言葉をメモして書いたと思います。
今日はその言葉を思い出すような出来事があったので、そのことについて書いてみます。
イメージ 1
(奥多摩湖 今回、この文章を書くのに引用、参考にした書籍と交互に写真をのせました)

自分を大切にできない人が、子どもや他人を大切にできるはずがないというのは、その通りだと思います。
逆もまた然りで、他人を大切にできない人は、自分もまた粗末に扱っているということになるのでしょう。
だから、「相手がどんな人であって、どんな場合であっても批判や悪口は慎むべきなのです」と言っていたのはある法曹関係の方で、裁判所で是非を問うお仕事をなさっているのに変わっているなぁと感じたものです。
 
先日、「あの人は人間的には良い人なのだけど、○○としての資質が無い」という発言を耳にしました。
(○○には職業が入ると思ってください)
その言葉をきいて、「人を裁くことと人を評価することの違いとは何だろう」と考え込んでしまいました。
ある宗教関係の方に雑談ついでにその違いを伺ったところ
「同じこと。
つまり、良い面を見ているか悪い面を見ているかの違いじゃないかな。
そう発言する人は肩を張って生きているんだよ。
「比べる」という字をよく見てごらんなさい。
左は角張って右は丸いでしょう。」
と謎かけのようなことを言われました。
イメージ 2
 (渡辺和子著『人をそだてる』サンパウロ)

『子どもの小さい間違いには目を閉じて、
良いところを見させてください。
良いところを心からほめてやり、
伸ばしてやることができますように。』
という言葉が同じ文でご紹介した「親の祈り」の中にありました。
 
そういえば、この前話題にした吉田松陰にも、人の良い点だけを見抜いて伸ばしてやるという教育者としての側面があったとお伝えしました。
その松陰の言葉です。
 
『人賢愚(けんぐ)ありと雖(いえど)も、
各々(おのおの)一、二の才能なきはなし、
湊合(そうごう)して大成する時は必ず全備する所あらん。
これ亦年来(ねんらい)人を閲(えっ)して実験する所なり。
人物を棄遺(きい)せざるの要術、
これより外(ほか)復(ま)たあることなし。』
(人間には賢い愚かの違いはあっても、どんな人間でも一つや二つの優れた才能を持ち合わせているものです。
全力を傾けてひとりひとりの特性を大切に育ててゆき、その才能が開花したなら、必ず全人格的な成長を遂げられることでしょう。
これは、長年人を育ててきた結果、私の得た結論です。
その人を見捨てないことの要点は、この真実を信じることの他にはありません。)
吉田松陰は「この世の中に不要な人など一人もいない」と、教育に対して全幅の信頼をよせていたそうです。
イメージ 3
 (日光市道1002号線)

その前にご紹介した井上成美氏の名前は、『子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す』という論語の一節から来ています。
『子曰、君子成人之美、不成人之惡、小人反是。』

(子曰く、諸君は他人の長所を長所として尊敬し、他人の短所を短所として同情して欲しい。
これに反したことはしてもらいたくない。)
(『現代語訳 論語』宮崎市定著 岩波現代文庫より)
彼は、傲慢な人たちに対して徹底的に情け容赦がなかったそうですが、海軍兵学校の校長をされているときは、自分を米作りの百姓になぞらえて、生徒たちの教育環境を守ることばかりでなく、そこに働く少年たちにまで学問ができるように心をくだいたといいます。
イメージ 4
 (海原徹著 『吉田松陰』ミネルヴァ書房)

しかし、どうしたら人の良いところだけを見て人とのかかわりをもち続けることができるのでしょう。
世の中には、何か事情があるのでしょうが、他人の粗ばかり探しまわっている人がいます。
ご本人はそれを何かのためになることだと信じてやっているのでしょうが、そういう人に限って、逆に自己の欠点を他人から指摘されると猛反発します。
すると、「ああ、この人は自分を防衛するために他人の欠点をあげつらっていないとならないのだな」ということが分かります。
孔子にいわせれば、その点はあなたも同じなのだから同情してあげなさいということでしょう。
かくいう私も、もし前述のように誰かを裁き、悪いところだけで評価する人を批判してしまったなら、彼らと同じ轍を踏んでいることになります。
イメージ 5
(甲州市) 

心理学者のA・アドラーは、自分を受け容れることについて、こんな言葉を残しています。
『何が与えられているかが問題ではなく、与えられているものをどう使っているかが問題だ』と。
これって、記憶力がないから、飽きっぽい性格だから学べないと嘆く前に、そんな自分には何が与えられているのか考えてみることからはじめようという意味ではないでしょうか。
たとえば、私はブロンプトンという道具を旅に使うわけです。
道具としてたいへん秀逸なのですが、仮に私が自転車好きなら、「もっとロードバイクみたいに走るちゃんとした自転車にして欲しい」と思うかもしれません。
逆に旅好きとして道具を追求しようとすれば、「もっとコンパクトになり、軽くなったらよい」と望むかもしれません。
そんなとき、希望すること自体は悪い事でなくても、それがいったん不満に転じると、途端に悪いものになると肝に銘じておくようにしています。
そんなことよりも、楽しく乗るにはどうしたらよいか工夫することが肝要ですよとアドラーは指摘しているのではないでしょうか。
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 (宮崎市定著『現代語訳 論語』 岩波現代文庫)

もし不満が言えるとすれば、それは製作している人だけにゆるされることで、一ユーザーとしての自分は、これをどう使いこなすかにのみ、心を集中しようと考えています。
そして、欠点も含めて対象を好きになることが大事だといいます。
たとえば、「速く走れない」も裏を返せば「のんびりと走ってじっくり見ることができる」わけであり、「大きすぎて重い」と感じても、それで「駅や空港では周囲の人々に気を配ることができる」と、短所と長所は実は背中合わせになっているわけで、発想を転換すればよいのだと思うようになりました。
先ほどの例でいえば、記憶力が無く飽きっぽいのなら、細かいことにこだわらず、どんどん新しいことに挑戦してゆけるということではないでしょうか。
そのうちに、これだったら覚えられる、根気よく続けられるという学問に出会えるかもしれません。
 
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(野田俊作著『続・アドラー心理学』アニマ2001)

これは、人に対しても同じことで、その人の欠点の裏にはかならず長所が存在しているという視点を持つことは、(とくに親子関係では)大切な事だそうです。
「子育てはまた、自分自身の育て直しでもある」という言葉が私は大好きだったのですが、目の前にお子さんのいらっしゃる方は、子どもの良いところも悪いところも等しく優しい眼差しでみていれば、自分も子どもの時はこうだったな、そんなときはこんな気持ちでいたなと共感できると思うのです。
そして今の自分に置き換えて、自己が成長するにはどうしたら良いだろうと考え、実践してみることが、ひいては子どもへの励ましになるのではないでしょうか。
それが、シスター・渡辺のいう「自分を大切にすること」や「必要な発想の転換」じゃないかなと、この頃考えています。
欠点をひっくり返して長所に変えるなんてマジックみたいですが、要は自分勝手な判断をやめることではないかと感じています。
自分も旅先で出会う人、見る物に対して、素直な眼差しをもち続けたいと思うのでした。
イメージ 8
(東京都多摩市内)

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