司馬遼太郎先生の幕末を扱った作品中でお勧めはと問われれば、
笑いたい→『竜馬がゆく』(司馬作品を読んでゲラゲラ笑ったのはこれだけです)
壮大なロマンに浸りたい→『菜の花の沖』
一途な生き方に触れたい→『燃えよ剣』『峠』
でしょうか。
(他に『翔ぶが如く』や『胡蝶の夢』もありますが、ちょっとマニアックです)
自分は昔の大河ドラマ「花神」のファンなので思想家(吉田松陰)→革命家(高杉晋作)→技術者(村田蔵六=大村益次郎)の系譜をあらわした、『世に棲む日日』→『花神』の小説リレーが一押しです。
今風の話に置き換えれば、「計画→実践→システムの構築」といったところでしょうか。
三人をはじめ、周囲の登場人物の個性が際立っていることも、読んでいて飽きません。
『世に棲む日日』の、「棲む」の字が表している通り、主人公の吉田松陰が純粋すぎるほどに私利私欲がありません。
前に松陰には色々な顔があると書きました。
長州藩の兵学者としての顔の他に、哲学者、教育者、そして旅人としての側面があるところが、浪馬がどうしても松陰から目が離せない理由です。
なにせ松陰は異常なほどに旅行しています。
その29年の生涯で、旅した距離は地球一周分、およそ13,000㎞といわれ、そのほとんどが徒歩です。
『世に棲む日日』の作中から抜き出してみます。
『松陰は、うろうろ歩いている。
二十歳の九州旅行以来、まるで歩くことが商売のようだ。
歩くがために脱藩という大罪をおかし、召し放ちになってもこのように性懲りもなく大和路を歩いている。
それが松陰にとっての大学であった。』
『松陰は歩き続けている。
歩くことが、この若者の青春の目的であるかのように夢中で歩いた。』
旧東海道をひたすら歩いているときに、よくこのフレーズが頭に浮かびました。
乗り物が未発達だった時代に、人々がみな意識はしなかったけれど、「旅イコール歩くこと」つまり、書物以外で遊学をするとなれば、歩くのが基本だったと思います。
この時代は、実学と旅は切っても切れなかったわけです。
しかし、それは今も変わらないと思います。
インターネットの情報で知った気になって、実際に現地へ行くと思っていたことと全然違ったという経験は、多々あることですから。
さて、そんな松陰の江戸周辺の足跡を時系列に沿って辿ってみましょう。
松陰がはじめて江戸に出てきたのは1951年、21歳のときでした。
江戸に出て文武修行をしたいと願い出てゆるされ、長州の首府、萩から江戸まで、殿様の参勤交代に随行しました。
随行といっても、大名行列の中に組み入れられて歩いたのではありません。
「先触れ」といって、行列に先行して、予め宿泊及び休息を予定する宿場や立場に赴いて、宿割りや食事の吟味をする役人がいるのです。
その役人に同行することを許可されていました。
今でいえば、添乗員さんについていったようなものですね。
道中、日記をつけるのが彼の習慣でした。
萩を発って35日、嘉永4年(1851年)4月9日、彼が江戸の長州藩桜田藩邸に到着して2時間後、追って参勤交代の行列が藩邸に到着する様子を、「熊幡(ゆうばん)、厳然トシテ邸ニイタル」と書いて旅の日記は締めくくられているそうです。
ところで「熊幡」って何のことかと調べてみても、日本語の辞書にはでてきません。
中国語で「熊幡=熊轓」のことと知り、翻訳をかけてようやく、「知事や地方長官の乗り物」を指していると知りました。
松陰ともなると、四書五経はもちろん、漢文の兵書にも詳しいわけで、日記にもそういう表現が端々に出てくるのでしょう。
(井伊家 (井伊掃部頭=かもんのかみ)の屋敷って、桜田門の目と鼻の先だったのですね)
さて、長州藩桜田藩邸はどこにあったのか調べてみます。
『世に棲む日日』には次のように描写されています。
『長州藩の桜田藩邸というのは江戸城の郭内にあり、桜田御門を入ってすぐが米沢の上杉家、それに道路ひとつをへだてて隣接し、高いナマコ壁をめぐらし、門内には御殿風の車寄せのついた大玄関があり、林泉がことに美しく、その優美さはいかにも西国の雄藩らしい。』
どこの藩の藩邸も、上屋敷というものは江戸城にいちばん近く、お殿様が江戸勤番の際に滞在し、妻子はずっとここに住んでいる類の場所だったので、いちばん立派だったはずです。
しかし、桜田門を入ってすぐは堀で、その向こうが正門、さらに向こうは二重橋で、こんなところに大名屋敷が建っていたとは思えません。
はて?と思い江戸切絵図集を調べてみます。
(現代は本当に便利ですね)
切絵図集で大名屋敷を探すときは、ちょっとコツがいります。
まず、索引で「毛利」候をひいてみましょう。
すると、
毛利淡路守(周防徳山)
毛利安国寺(豊後佐伯)
毛利甲斐守(長門長府)
毛利(松平)大善大夫(長門萩)
と四つの毛利家が出てきます。
()内は藩の名前ですから、このうち上から三番目までは、支藩と呼ばれる毛利本家とは親戚筋の殿様の家だと分かります。
そして長門萩が毛利本家なのですが、苗字の後に(松平)と入っているのを覚えておきましょう。
毛利本藩ともなると、上屋敷(桜田門付近)、中屋敷(東京ミッドタウン)の他に、大夫山と呼ばれる別邸(世田谷の若林・松陰神社付近)がありました。
ここでは桜田門付近に絞って絵図を見てみましょう。
すると、「上杉弾正大弼」の名前はすぐ見つかります。
これは上杉景勝公のことですから、ここが米沢上杉家でしょう。
関ケ原の戦いで西軍と通謀し、戦後に会津から米沢に減転封となったのは有名な話です。
しかし、「毛利」の文字はどこにも見当たりません。
実は索引の()書きにあったように、「松平大善大夫」と書いてある場所が、毛利家上屋敷の場所なのです。
要するに、桜田門を出てすぐ左が上杉家で、内堀通りを日比谷方向へ、上杉家の左隣が毛利家という具合なのでした。
つまり、「桜田御門を入って」ではなく、(江戸城からみて)「門を出て」が正確だったというわけです。
司馬先生のご愛敬のおかげで、江戸城周囲の武家屋敷の様子がわかりました。
ここで、なぜ毛利氏が松平姓を名乗っているのか疑問に思いますよね。
調べると、これは毛利家が臣従のしるしとして、偏諱(へんき・かたいみな)と呼ばれる名前の一部を、藩主が元服の折に徳川将軍家から賜るようになり、そのために松平姓を名乗ることをゆるされたということらしいです。
毛利氏は関ケ原の戦いでは西軍の総大将をつとめた家柄で、戦後中国地方の覇者から、周防・長門の二国のみに減封されたため、徳川家に対する恨みが幕末まで続き、藩主以下の上級武士は、足を江戸に向けて床に就いたり、毎年正月に藩士が藩主に対して「討幕のお伺い」をたてたりするほどに、徳川氏嫌いな家だったはずです。
まぁ、面従腹背と申しましょうか、何事も格式の江戸時代ですから、面従と腹背のどちらもが、ルーティンになってほぼ意味を持たなくなっていたのでしょうね。
でも、松陰をはじめ防長二州の人々が、幕末にあれほどエネルギッシュに行動しなければ、明治維新もどうなっていたか分かりませんから、その意味ではまことに雄藩だったわけです。
ということで現代の毛利家上屋敷跡は、日比谷公園の北東角にある、日比谷見附跡から心字池あたりから、検察庁・公安調査庁あたりにかけてがそれなのでした。
それまで九州遊学しか旅したことのなかった二十歳そこそこの吉田松陰は、ここ上屋敷を拠点として目をキラキラさせながら、江戸のあちこちへ学問をしようと歩き回ったにちがいありません。
もっとも、屋敷内は江戸に留学しに出てきた藩士で溢れかえり、毎晩「ここは空いていますか」とお伺いを立てて、寝床を敷く部屋を転々としていたらしいです。
(松陰にもそんなジプシー苦学生の時代があったとは…)
当時も大都会だった江戸を、彼はどのように眺めただろうなどと思いながら、次回また松陰の足跡をブロンプトンで辿ってみようと思います。